山下大輔
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山下 大輔DeNA二軍監督時代
(2012年3月22日、平塚球場にて)
基本情報
国籍 日本
出身地静岡県清水市(現・静岡市清水区
生年月日 (1952-03-05) 1952年3月5日(72歳)
身長
体重175 cm
78 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手三塁手二塁手
プロ入り1973年 ドラフト1位
初出場1974年4月7日
最終出場1987年10月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


静岡県立清水東高等学校

慶應義塾大学

大洋ホエールズ
横浜大洋ホエールズ
(1974 - 1988)

監督・コーチ歴


横浜ベイスターズ (1993 - 2000, 2003 - 2004)

東北楽天ゴールデンイーグルス (2005)

ロサンゼルス・ドジャース(2009 - 2011)

横浜DeNAベイスターズ (2012 - 2013, 2015)

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山下 大輔(やました だいすけ、1952年3月5日 - )は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)・監督コーチ解説者評論家。愛称は「大ちゃん」。
経歴
プロ入り前

清水東高校から1970年に一般入試で慶應義塾大学商学部へ進学。東京六大学野球リーグでは、1年次の同年秋季リーグから正遊撃手となり、高校の2年先輩である松下勝実とクリーンアップを組み活躍する。2年上の工藤真投手、清水東高でも2年上の松下勝実、1年上の萩野友康長谷部優両左腕投手らを擁し、2年次の1971年秋季リーグからの3連覇に3番打者として貢献。1、2年時には「鬼の榊原」と呼ばれた榊原敏一監督に「試合と同じ集中力で練習しろ」と鍛え上げられた[1]。3年次の1972年全日本大学野球選手権大会準決勝で4年藤田康夫と1年田村政雄両投手の中大を完封で下し決勝に進むが、関大山口高志に完封され準優勝にとどまる。同年から2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、1972年の大会では2本塁打を放つ。4年次の1973年には主将を務めた。「慶應のプリンス」と呼ばれ、同年春季リーグでは首位打者を獲得。当時高校生だった中尾孝義は、この頃山下から指導を受けたことがあると、YouTubeチャンネルでのインタビューで語っており、山下と慶大野球部への憧れから浪人して慶大進学を目指した(結果的には慶大合格は果たせず専修大学に進学した。)。大学同期に捕手木原弘人がいた。リーグ通算88試合に出場し、314打数102安打、11本塁打、50打点、打率.325、首位打者1回、ベストナイン4回。
現役時代

1973年のドラフト会議を前に山下は「巨人が第一志望。在京球団でも構わない」と態度を表明していたが、その言葉通り、1番クジで1位指名した大洋ホエールズに入団。当初の背番号は20。中部謙吉オーナーは山下の入団を大変喜び、秋山登ヘッドコーチの提案もあってユニフォームの色を出身地の静岡の名産にちなんだオレンジ(みかん)と緑(お茶)に変えた。これは親会社が食品会社なので食品にちなんだユニフォームにしてイメージアップを図る意味もあったが、この配色は湘南電車の色としても広く知られている。

1974年は慶大の卒業試験を終えた後の2月14日にキャンプ地の静岡入りし、翌15日にはチームは休日であったが、山下1人と首脳陣でランニング、フリー打撃、ノックなどの練習が行われた[1]。その夜に山下は風邪で発熱し、キャンプインしたのも束の間、清水の実家で数日間療養することになった。この時はスポーツ紙の担当記者が実家まで見舞いに来て、「焦ることはない」など優しい言葉をかけたが、翌16日の紙面には「虚弱児・山下」と大見出しが躍るなどプロの洗礼を受けた[1]。1年目の同年から守備力は評価され、オールスターゲームに控え選手であったにもかかわらずファン投票で選出されるほどの人気があったが、期待された打撃面が不安定で、米田慶三郎からレギュラーを奪うまでには至らなかった。

1975年には背番号を近藤昭仁が付けていた1に変更し、4月下旬には米田に代わりレギュラーに定着した。

1976年には開幕から二番打者として起用され、初めて規定打席(23位、打率.276)にも到達。遊撃手の守備率の当時のセ・リーグ記録を樹立し、ダイヤモンドグラブ賞を初受賞する。以後、ダイヤモンドグラブ賞は1983年まで8シーズン連続で受賞し、遊撃手としての受賞回数は2020年現在も最多記録である。当時の本拠地であった川崎球場は、狭く、汚く、巨人戦以外は客が入らず、評判が悪かった。ファウルボールが球場外周の駐車場に止めた選手の車を直撃することもあり、観客は秋頃には数十人でグラウンドから数えることができ、スタンドの最上段から隣の川崎競輪場を覗いている人もいた[1]。試合開始前に球場敷地内にあるラーメン店からおばちゃんが醤油ラーメンをロッカールームまで届けてくれたこともあり、ファンと共通の思い出の味になった[1]。若手時代には豪放磊落な先輩が多く、キャンプや遠征先では、大部屋で朝方まで麻雀が行われることもしばしばあった。煌々と明かりがつき、ジャラジャラと騒がしい中でも、布団を被って眠れるようになった[1]

1977年に遊撃手連続守備機会無失策のセ・リーグ記録を樹立する。

1978年には自身の記録を上回る日本記録を樹立[2]

1982年オフには関根潤三監督の指名で大洋版伊東キャンプに参加した[3]

1985年には新任の近藤貞雄監督により、高木豊と入れ替わりで二塁手へコンバートされる。

1986年には一塁手であった田代富雄の故障後、三塁で拙守が目立っていたカルロス・ポンセが一塁へ回ったことから、三塁手へコンバート。


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