山下俊一
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やました しゅんいち山下 俊一
2012年1月13日、東京都にて
生誕1952年
長崎県長崎市
居住 日本
国籍 日本
研究分野医学
研究機関長崎大学
世界保健機関
福島県立医科大学
量子科学技術研究開発機構
出身校長崎大学医学部卒業
長崎大学大学院
医学研究科博士課程退学
指導教員高岡善人
橋場邦武
和泉元衛
長瀧重信
主な受賞歴日本医師会最高優功賞
2007年
朝日がん大賞
2011年
プロジェクト:人物伝
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山下 俊一(やました しゅんいち、1952年 - )は、日本の医学者医師学位医学博士長崎大学1989年)。国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構高度被ばく医療センターセンター長(初代)、長崎大学学長特別補佐(福島復興・原子力災害担当)・原子力災害対策戦略本部教授福島県放射線健康リスク管理アドバイザー

長崎大学医学部助手、長崎県立多良見成人病センター職員、長崎大学医学部教授、長崎大学大学院医歯薬学総合研究科教授、世界保健機関放射線プログラム専門科学官、福島県立医科大学副学長、長崎大学副学長、国立大学法人長崎大学理事などを歴任した。
生い立ち

1952年長崎県長崎市で生まれる。父方は迫害を受けてきた浦上の隠れキリシタンの子孫で[1][2]、洗礼名ボナベンツラとして乳児洗礼を受けた[3] カトリック信者である[4]。同市城山地区で聖アウグスチノ修道会のアメリカ人司祭トマス・パーセル神父らが創立したカトリック城山教会[5][6] で育ち、山下本人によれば「私の信仰の種はパーセル神父様やシスター方からのもの」であるという[7]。また、「聖アウグスチノ修道会やサンモール修道会の聖職者からたくさんの愛情を受けて育てられました」とも語っている[3]

両親が長崎市への原子爆弾投下で被爆した被爆二世[8]。母親は16歳の時[9] に中川町で被爆した[10]。また、元はカトリック信者ではなく、結婚を機に改宗している[2]

親戚について、本人は「親戚郎党みんな原爆で亡くなりました」と語っている[11]。子供の頃からアルベルト・シュヴァイツァー永井隆を尊敬しており、2012年1月13日に東京都で行われた内閣府野口英世アフリカ賞担当室のインタビューに対し、「生命への畏敬」と「如己愛人」が座右の銘と答えている[12]。永井隆の心を胸に刻んで医学の道に進んだ[13][14]。また、野口英世も尊敬していたので、当初は熱帯医学に憧れていた[12]。カトリック系の聖マリア学院小学校・中学校で幼稚園から中学校まで教育を受け[15]、その後は長崎県立長崎北高等学校で学んだ[16]

幼稚園の頃は他人の弁当を早食いし、昼休みには木に縛られていたと語っており、善悪の判断が出来るようになったのは12,3歳の時であったという[17]
長崎大学

1978年3月に長崎大学医学部を卒業。長崎大学医学部附属病院(現長崎大学病院)での最初の2年間の研修を第一内科高岡善人教授の下で過ごし、その後は神経班、内分泌代謝膠原病班、消化器班を経て、第三内科で橋場邦武教授に循環器について学んだ[18]。臨床系大学院に戻り、和泉元衛そして長瀧重信教授の下で学んだ[18]1984年に長崎大学大学院医学研究科博士課程修了。長崎大学教授(当時)長瀧重信の支援により、1984年から1987年の3年間アメリカのロサンジェルスのシダーズ・サイナイ医療センター(Cedars-Sinai Medical Center)に研究留学[19] し、帰国後は文部教官に採用され、長瀧教授の下で長崎大学医学部第一内科助手として働いた[20][21]

1989年医学博士の学位を取得、翌年の1990年に長崎大学医学部附属原爆後障害医療研究施設(原研)教授に就任[18]。当時は日本全国で1、2位の若さであり、講師、助教授を経ずに助手から教授となったため、毎日新聞に「三段跳び」と報道された[21]。就任当時、山下は「原研である以上、被爆者の自覚をもって平和運動につながるような(医療面での)社会活動もしたい」と語っていた[21]
チェルノブイリ

1991年にチェルノブイリ笹川医療協力プロジェクトに参加して以来、約20年間チェルノブイリ原子力発電所事故の健康調査および甲状腺がんの子どもの診療に従事。チェルノブイリ周辺には100回以上訪れた[22]

山下が選ばれた理由は、「若い医師は行きたがらず、既に子供が4人いたから」であった[23]。現地では、甲状腺がんが激増しているのが分かったので「自分の子だったら」の思いで取組み[23]、「母親とも触れ合う中、被災地が長崎の隣にあるような感覚になった」[24] と語っている。この時までは「(被爆)二世だから、何かしなくては」という気持ちはそれほど強くなかったが、「放射能が胎児に及ぼす影響におびえる母親の質問に『実は私も被爆二世ですが、こんなに元気です』と答えた途端、その目に漂っていた不安があっという間に消えた」ので、被爆二世が大きな意味を持つことに気付いたという[10]。また、放射能汚染を心配して食料を持ち込む研究者もいたが、山下は住民の出した魚やスープを気にすることなく食べたので住民は信頼を寄せたという[25]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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