山上光治
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疑問の要約:「自決」の記述について

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山上光治(やまがみ みつじ 1924年 - 1948年3月23日)は、日本ヤクザ。岡組組員。広島県北広島町出身。広島抗争の主要人物として知られ、「殺人鬼」と呼ばれた。
来歴
出生?入隊

1924年大正13年)、広島県山県郡八重町(現:北広島町)で生まれた。父は広島市大須賀町に出て、下駄店を営んでいた。1939年(昭和14年)3月に広島第一高等小学校を卒業し、満州国に渡って奉天造兵廠の検査工となった。

1944年(昭和19年)、呉市海軍工廠に徴用工としてとられた。同年、広島市胡町の路上で、不良同士の喧嘩の仲裁をしたときに一方の不良と喧嘩になり、相手をナイフで刺した[注釈 1]。その咎で呉鎮守府軍法会議にかけられ、懲役2年の刑が確定した。その後広島刑務所に収監され、久留米、函館、北千島と移された。最後に函館少年刑務所で刑期を終え、結果的に合計1年6か月服役して仮出獄となった。

1945年(昭和20年)5月、山上に召集令状が発令され鳥取陸軍部隊に入隊した。
岡組・村上組の動き

1945年(昭和20年)8月ごろ、天本菊美の子分であった岡敏夫[注釈 2]が土木建築請負「岡組」の看板を掲げた[注釈 3]。親分である天本が引退した後、岡がその跡目を受継ぎ、主として広島市東部一帯に勢力を張った。

またその同じころ、神農会秋月一家の流れをくむ祐森松男の身内だった村上三次が、テキヤ・村上組を結成した[注釈 4]。村上組は広島駅前の一帯をなわ張りにして勢力を張った。村上三次の次男・村上正明は愚連隊の首領となっていた。村上正明と村上組幹部・村戸春一、村上組幹部・菅重雄は、岡の舎弟分だった。
復員?岡組の若衆へ

1945年(昭和20年)10月、山上は山県郡八重町の実家に帰郷した。同年11月、広島駅猿候橋口の闇市に姿を現すようになり、多少英語が出来た山上は進駐軍からキャメルラッキーストライクなどの洋煙草を手に入れるとバラにして、闇市で売り始めた。山上の洋モクは評判となり瞬く間に売り切れた。

ある日、山村組の組員に闇市のショバ代を要求されたが、支払いを拒否したため暴力をふるわれた。その後も何度か襲撃されている[注釈 5]。同年11月末も闇市で村上正明ら4、5人に捕まり、側頭部をピッケルで刺されるなど激しい暴行が加えられていた。しかしその現場には岡組組員が集まってきており、岡が村上らの暴行を止め、瀕死の状態に陥っていた山上を岡組が介抱した[注釈 6]。怪我が完治すると山上は岡組の若衆となり、岡に村上正明への報復を直訴したが許可は得られなかった。
最初の服役

1946年(昭和21年)4月16日夜、山上は岡の親類筋の男ら2人とともに、広島市旭町の旧広島被服廠倉庫に隠退蔵物資を盗みに押し入った[注釈 7]。梱包類を運び出し始めたときに警備員の泉に発見され、山上は (結果的に) 泉を拳銃で撃って逃走した[注釈 8]。しかし10日後の4月26日警察に自首し、広島刑務所に拘置された[注釈 9]。裁判は東洋工業(現:マツダ)の本社工場で行われ[注釈 10]、山上は無期懲役の判決を受けて広島刑務所に服役した[注釈 11]。山上は服役中に短歌の創作に没頭し、9月21日ごろから45日に渡る断食を行った[注釈 12]。11月4日に栄養失調による重症状態に陥り、刑の執行が停止され広島赤十字病院に入院した。その後刑務所病舎に移され、吉島の刑務所で岡[注釈 13]が引き取り柳橋の自宅兼岡組事務所へ連れて帰った[注釈 14]。同日中に意識を回復して食事を取り、10日ほどで京橋川畔まで歩いていける状態になった。
広島抗争

1946年(昭和21年)11月10日[注釈 15]夜、広島市における第一次広島抗争が勃発した。


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