山一證券
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「山一」はこの項目へ転送されています。かつて存在した鞄を生産販売していた同名の企業については「山一 (企業)」を、1984年から数年間発生していた山口組と一和会の抗争については「山一抗争」をご覧ください。

この項目では、1997年に自主廃業した旧・山一證券について説明しています。2005年に設立された山一證券については「山一證券 (2005年設立)」をご覧ください。

山一證券株式会社
Yamaichi Securities Co., Ltd.
かつて、山一證券本社が入った茅場町タワー
(東京都中央区新川
種類株式会社
市場情報東証1部: 8602
略称山一
本社所在地 日本
103-0026
東京都中央区日本橋兜町12番1号
設立1897年明治30年)(創業)
2005年平成17年)(解散)
業種証券、商品先物取引業
金融機関コード9522
事業内容証券業
代表者野澤正平(代表取締役社長)
資本金1266.07億円(1997年3月期)
主要子会社山一信託銀行
山一情報システム
山一證券投資信託委託
山一投資顧問
特記事項:1997年(平成9年)11月24日の自主廃業時のデータ。
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山一證券株式会社(やまいちしょうけん、: Yamaichi Securities Co., Ltd.)は、かつて存在した日本の大手証券会社

バブル期には野村證券大和證券日興證券と、当時の日本四大証券会社を担ったが、不正会計(損失隠し)が発覚。100周年の1997年平成9年)11月24日自主廃業を発表、2005年解散。
概要

法人関連業務に強く、「法人の山一」「人の山一」と言われ、日本の資本市場の発展と日本経済を支える多くの上場企業の成長を支えた大証券会社であった。現代経済を支える数多くの成長企業は、山一證券の指導を受け、株式を上場している。

日本の近代化、高度成長とともに圧倒的シェアの引受主幹事を持つ証券会社へと成長し、最も多くの企業を上場させた。主幹事会社数は、野村証券以上の数で、戦後の一時期まで値付けの多くを行う、日本最大の業績を持つ証券会社であり、その後もいわゆる「四大証券会社」の一翼を担い日本経済に貢献した。

自主廃業を宣言し、1997年(平成9年)11月に業務を停止。法人としての山一證券株式会社(旧社)は2005年(平成17年)に解散するまで、108年間存続した。 

顧客預かり資産返還の際に、山一社債が顧客に返済され、倒産でない自主廃業の理由を問う声も多くあった。その後、世界の金融システムの動揺でアジア通貨危機が発生した。

2005年、商標権を取得した元社員によって、山一證券株式会社(新社)が再興された(法人としての連続性はない)(後述)。

2019年現在、山一證券の子会社の山一信託銀行は、オリックス銀行として存続。山一證券投資信託委託は、三菱UFJ信託銀行の子会社となり、三菱UFJ投信として存続している。
歴史

以下、歴代社長の業績を中心に記述する。
小池国三(創業者)小池国三

山一證券は、山梨県出身の小池国三1897年(明治31年)東京兜町に「小池国三商店」を創業[1]し、東京証券取引所仲買人の免許を受け、證券取引業を開始したことから始まる。

小池は、小学校卒業後の1878年(明治11年)12歳で甲州財閥の名士若尾逸平の門に入り師事。1890年(明治23年)若尾逸平貴族院議員に就任した際、秘書を務めた。

山一証券の社章は、小池国三が末永く師を敬う思いから最も尊敬する若尾逸平の家紋「山に一」に決め、社名を「山一」と命名した。

小池国三は、日本の金融システムが、欧米に大きく立ち遅れている危機感を持つ若尾逸平東急五島慶太らとともに、渋沢栄一率いる「渡米実業団」に参加渡米し、ニューヨークウォール街を視察。帰国後は、首都東京の鉄道交通網の近代化を急ぐ国、東急グループの五島慶太を始めとする財界と協力して、日本の経済・金融の近代化に努めた。

1907年(明治40年)に小池合資会社に改組し、1909年(明治42年)証券会社で初めて国から国債の引き受け販売を許され、1910年(明治43年)江之島電気鉄道社債元引受など、企業が発行する社債の販売を現実化し、金融の近代化を国から託される証券会社として大きく成長した[2]

開業20周年の1917年(大正6年)4月15日、小池合資は、山一合資となり、1919年(大正8年)に横浜に事務所を、大阪名古屋等の主要都市にも事務所を設置した。

山一が引受し、欧米のように銀行借り入れ以外の株式、社債で企業の自由な資金調達が可能となった。

小池国三は、杉野喜精に山一を託し、東京ガス富士製紙、九州炭鉱等の社長も務める甲州財閥の名士となった。
杉野喜精時代1930年代の山一證券の広告

1917年(大正6年)年、日本銀行出身の杉野喜精を社長として、小池合資は山一合資会社となり、

杉野喜精は、我が国の経済発展のために、海外の市場に負けない金融市場の必要性を説いた。

1926年(大正15年)、山一合資会社は、山一證券株式会社へ改組した。

元々はそれより前に検討していたが世界経済の悪化、関東大震災、小池国三の死去により改組が遅くなったとされる。
太田収時代

1935年(昭和10年)12月、杉野喜精が東京株式取引所理事長に就任。

その後任として選ばれた太田収は、1938年(昭和13年)5月4日、自らが指揮した鐘淵紡績新株投機戦の失敗の責任を取り[3]山一證券社長を辞任。太田の後任として副社長だった平岡伝章が暫定的に社長に就任、12月に専務の木下茂が社長を引き継いだ。
小池厚之助時代

1943年(昭和18年)9月、山一證券と、小池国三の小池銀行が改組した小池証券とが合併し、新しい山一證券株式会社が発足した。社長には小池国三の次男で、小池証券の社長を務める小池厚之助が就任。
大神一時代

1954年(昭和29年)副社長であった大神一が社長へ就任、小池厚之助は会長となった。

戦後しばらくはGHQの許可なしに証券取引業の再開ができなかったが、戦前は19店舗であった支店は1952年に47店舗まで増加した。

大神は社長就任以降、業界第一位主義を掲げ、強気な拡大路線を敷いた。1957年(昭和32年)頃、野村證券が業界トップとなり[4]、山一は業界2位となった。1961年(昭和36年)に戦後高度経済成長時代の一つである岩戸景気が終焉を告げ、株式相場は7月をピークに下げに転じ、この証券不況で山一の経営も悪化、経常損失1963年(昭和38年)9月期で30億円、1964年(昭和39年)9月期で54億円。1964年(昭和39年)11月に大神は会長となり、日本興業銀行出身の日高輝が、社長に就任。

支店数は、1962年に112店舗まで伸びていた。
日高輝時代

メインバンクの1つの日本興業銀行頭取の中山素平は、興銀同期入社で日産化学工業の社長をしていた日高輝を、再建のため山一證券社長に送り込んだ。


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