屯田兵
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "屯田兵" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2018年11月)
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、明治時代における日本の屯田兵について説明しています。屯田制全般については「屯田」をご覧ください。

屯田兵(とんでんへい)は、明治時代に北海道警備開拓にあたった兵士とその部隊である。1874年(明治7年)に制度が設けられ、翌年から実施、1904年(明治37年)に廃止された。
北海道
屯田兵の開始

屯田制を北海道に実施するという考えは、明治初年から様々な方面に生まれていた。1867年慶応3年)、坂本龍馬は大政奉還で武士が職を失うことを予想しその力を北海道開拓に活かすことを考え、同志にエゾ(北海道)に渡り、新しい国をつくることを述べていた[1]徳川家の遺臣を移して北方警備と開墾に従事させようとする榎本武揚の考えで、彼はこの計画を掲げて新政府と箱館戦争を戦った。新政府側では佐賀藩主の鍋島直正が、失職する武士の授産のためとして屯田兵を設けよとの意見を抱いていた[2]

政府内の提案としては、明治3年11月(1870年12月 - 1871年1月)に開拓使が行なったものがはじめである[3]。ついで西郷隆盛が1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけて士族による北方警備と開拓を主唱した。西郷は計画の実現をみることなく下野したが、彼の影響で開拓次官の黒田清隆が1873年11月に太政官に屯田制を建議した。樺太と北海道の兵備の必要と、そのための費用を憂え、「今略屯田の制に倣い、民を移して之に充て、且耕し且守るときは、開拓の業封疆の守り両ながら其便を得ん」というものであった。黒田が考えたのも士族の活用であったが、彼の場合旧松前藩と東北諸藩の貧窮士族を想定していた。

太政官は黒田の提案に賛成し、1874年(明治7年)に屯田兵例則を定めた。1875年(明治8年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地で、屯田が開始された。
前期屯田の進展『北海道巡幸屯田兵御覧』(高村真夫筆)。明治14年、北海道行幸で山鼻屯田兵村(現在の札幌市中央区山鼻)を視察する明治天皇

初期の屯田兵募集は身分上募集が制限されていた。身分や年齢の制限を満たすための便法として養子縁組を行なうものを屯田養子といった。が、実のところ募集当局に平民を拒む意思はなかったので、ここから問題が起きることはなかった[4]1891年(明治24年)に身分制限が正式に取り払われると、新兵の身分比はほぼ人口中の身分比に等しくなった[4]。よって、前期と後期で屯田兵の時代区分をする。

屯田ははじめ札幌近くの石狩地方に展開し、しだいに内陸や道東部などに範囲を広げた。屯田兵は、二百余戸の中隊を一つの単位として兵村を作った[5]。中隊はいくつか集まって大隊を編成したが、大隊レベルの編成はしばしば変わった。はじめ、屯田兵は開拓使の屯田事務局(後に屯田事務係)の下に置かれたが、1882年(明治15年)開拓使が廃止されることになると、陸軍省に移管された。陸軍省のもとで屯田兵の所管組織は屯田兵本部、屯田兵司令部と改称し、一般の部隊の編制に近づいた。屯田兵本部長、屯田兵司令、そして後に設置される第7師団長は、永山武四郎が務めた。

徴兵制だった当時の日本において、屯田兵は長期勤務の志願兵制という点でも特殊であった。法制上は兵卒から士官への昇進の規定はなかったが、実際には昇進者もあり、後期屯田の幹部となった。

屯田兵は1877年(明治10年)に西南戦争に参加して戦闘を重ねた。このとき、増援のために屯田予備兵が編成されたが、訓練中に戦争が終結に向かったため、こちらは実戦を経験しなかった。戦後、屯田予備兵は普段は生業に就き、戦時と年1度の演習時にのみ召集される兵士として、そのまま常置された(西南戦争終結後の12月に屯田兵予備兵条例が制定された)。予備兵は1881年(明治14年)に廃止された。
後期屯田の展開

開拓使の廃止後、太政官大書記官の金子堅太郎伊藤博文の指示で北海道の実情調査を実施した。その報告である「北海道三県巡視復命書」の中で、金子は屯田兵の拡大を提案した。山縣有朋井上馨も北海道を視察して屯田兵を重視すべきとの印象を得た。永山武四郎本部長はロシア帝国コサック兵の制度を調べ、これを参考にして屯田兵拡大の具体策を立てた。帰国した永山が、1888年(明治21年)6月15日に、屯田兵本部長を兼ねつつ北海道庁長官に就任すると、屯田兵の改革・増設計画が急速に進んだ。

1889年(明治22年)2月に、1893年(明治26年)までに20個中隊を増設する計画が発表された。何度かの法令改正で、兵員の将来と権利を保障する制度が導入された。募集方法が変えられ、もはや士族出身者を積極採用することはなくなった。屯田兵に与えられる土地は従来の1.5倍となり、ほかに共同利用の公有地が用意された。期間は現役3年、予備役4年、後備役13年の計20年、満40歳までに限られた。兵村には、兵員から選挙で選ばれる兵村会が設けられた。

1890年9月6日、屯田兵土地給与規則が公布され、屯田兵として北海道に移住の者に土地1万5000坪を給与し、免税・譲渡制限などの保護をあたえた。

後期屯田では前期と異なり、上川空知へ重点が移された。(一部札幌も含まれる)過去の経験の蓄積、良好な土地選定、農民出身者が多かったことなど、好条件が重なり、後期屯田の経営は好成績を収めた。
屯田兵の廃止

後期屯田の実施時には、既に北海道の開拓が相当に進展しており、大規模な入植に適した土地が少なくなっていた。またこの頃、北海道の人口は徴兵制で兵士を集めることが可能な水準に達しつつあり、第7師団の創設につながった。新たな入植は1899年(明治32年)の上川(剣淵)、士別で終わり、彼らが後備役に入った1904年(明治37年)に屯田兵制度が廃止された。

1906年(明治39年)4月12日、屯田兵土地給与規則の廃止が公布された。
生活と任務納内村(現在の深川市)に建てられた屯田兵屋。札幌市厚別区北海道開拓の村」にて撮影。納内屯田兵屋の内部。壁には制服が掛けられている。

屯田兵は家族を連れて入地し、入地前にあらかじめ用意された家「兵屋」と、未開拓の土地を割り当てられた。兵屋は一戸建てで村ごとに定まった規格で作られた。板壁の柾屋根(薄く割った板で葺いた屋根)の木造建築で、広さは畳敷きの部屋が2部屋、炉を据えた板の間、土間、便所からなり、流し前は板の間あるいは土間におかれた。決して贅沢な間取りではないが、当時の一般庶民の住宅よりは良かったという。

兵村は形式においては一般の村と並ぶものではないが、集団で入って一つの規律に服したので、実際には村の中の独立した村として機能した。兵村には、週番所(1886年(明治18年)に中隊本部と改称)、練兵場、射的場が付属した。兵村は他に広大な共有地も持っていた。

屯田兵の生活規則は厳しかった。起床と就業の時間が定められ、村を遠く離れる際には上官への申告を要した。軍事訓練と農事のほかに、道路や水路などの開発工事、街路や特定建物の警備、災害救援に携わった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:29 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef