屋形(やかた)とは、公家や武家など貴人の館のことを意味する。室町幕府及び江戸幕府においては、名門或いは功績ある武家の当主、及び大藩
の藩主に許された称号または敬称であって、屋形号という。屋形号の上位には公方号、御所号がある。屋形号が成立したのは室町時代初期の頃であり、足利氏の一門や有力な守護大名、守護代、主に室町幕府の成立や謀反人討伐に功ある国人領主に許された。 例えば、平高望が政務所を設け子の良兼を住まわしたとされる上総国武射郡の「屋形」の地が千葉県山武郡横芝光町屋形として現在に伝わっており、単に居館のことを意味していたものと考えられ、また屋形船なども現存し、言葉の意味としては屋形と館に違いはない。 平安時代以前、「城」は「柵」あるいは「砦」であり、居館ではなかった。その後、武家の台頭とともに戦略上有利な「城」が居館としての役目を持つようになると、「屋形」の持つ意味は実質的には薄れ名目的なものとなった。 通常、武家社会の中で主君に対する敬称は「殿」・「殿様」が主流である。しかし、南北朝時代には後醍醐天皇から陸奥国の有力武将・結城宗広に下した綸旨に「結城上野入道館」と宛名したように、南朝から東国の大名への書状を遣わす際の宛名に「屋形館」と付す例が現れるようになり[1]、さらに室町幕府成立以降になると、足利将軍家から屋形号を与えられた大名に対する敬称として「御屋形様」(おやかたさま)という尊称が定着するようになった(屋形号を有する大名は主に御屋形様(おやかたさま)と尊称されたが、重臣の場合は御屋形、屋形と略称したケースもある。上様ともいった。屋形号を有する大名の正室は御裏方様、御たいほうなどといわれ、嫡男は主に新屋形様、上様と尊称された)。 当初は将軍のみが諸大名に対する免許権を有していたが、後に鎌倉公方・足利満兼が関東の諸大名に免許して関東八屋形の制を整えることで、将軍・鎌倉公方による免許制が整った。屋形号は室町幕府でも守護以上の身分で遇される足利一門や、代々有力守護であって幕府の重職につく家や特に功績ある家柄、また、国人領主ながら、室町幕府の建設に功労ある家柄に許された。 尚、時代によって変遷はあるものの、室町幕府体制下における「屋形」とは、 以上の20数家の事を指し、これらの家々が室町幕府における「大名」と呼ばれる家々であった。これら「大名」と呼称された家々を俗に「室町二十一屋形」(『京極家譜』)と称した。
屋形号成立以前
屋形号の格式
室町幕府の免許制
斯波氏(武衛家)
畠山氏(金吾家)
細川氏(京兆家)
山名氏(本宗家)
一色氏(本宗家)
畠山氏(匠作家)
細川氏(讃州家)
赤松氏(本宗家)
京極氏(本宗家)
大内氏
斯波氏(大野家)
土岐氏(西池田家)
六角氏
細川氏(上和泉家)
細川氏(下和泉家)
今川氏
山名氏(伯耆家)
山名氏(石見家)
武田氏(豆州家)
富樫氏
細川氏(奥州家)
京極氏(加州家)
この「大名」と称された二十一屋形の他、奥羽においては足利氏の一門である斯波氏の庶流・斯波兼頼は屋形号を受けて最上屋形を称したのに伴い、最上氏の祖となっている。また、幕府の重臣・大館氏は伊勢守護で御所号を有する北畠氏の娘婿となり、屋形号を授けられ関岡屋形と名乗っている。国人領主に対しては貞治3年(1364年)、幕府奉公衆の宮氏が備中守護に補任され、屋形号を授けている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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