屋上遊園地
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屋上遊園地(おくじょうゆうえんち)は、主としてデパートの屋上にある遊戯施設を指す。昭和30年代初めより昭和40年代半ばにかけてが絶頂期であった。2019年まで存在した丸広百貨店川越店埼玉県川越市)の屋上遊園地。
歴史
戦前・戦中

日本における店舗内遊戯施設の起こりは、1903年(明治36年)に日本橋白木屋呉服店(後の東急百貨店日本橋店、現在跡地はコレド日本橋)内でシーソー木馬など遊戯室を設置したのが始まりである。1907年(明治40年)には、日本橋三越が「空中庭園」と銘打った屋上庭園を開園し、約60坪程度の敷地には噴水植物(藤棚、盆栽)、廻転パノラマ望遠鏡などを備えた。ただしこれはいわゆる山の手在住の人々の利用が一般的であった。同年には松屋神田店(神田鍛冶町)が屋上遊覧所を設ける。1912年(大正元年)になると、大丸京都店がローラースケート場や音楽堂を屋上へ設置。その後は、1923年(大正12年)に開店した松坂屋銀座店屋上にライオンを始めとする動物園を開園した。1931年の松屋浅草店。屋上に「航空艇」があるのが見える

常設による日本初の屋上遊園地は、日本娯楽機製作所(現・ニチゴ)の遠藤嘉一が1929年(昭和4年)に日本初の自動木馬を開発[1]宝塚新温泉への納入実績により)したことから、1931年(昭和6年)11月に東武浅草駅駅ビルに開店した松屋浅草店に設けられた。日本娯楽機製作所社長の遠藤嘉一は、設計技師と話し合って「スポーツランド」と命名する。これはその後の「○○ランド」のはしりとなった。

開園にあたって、当時世界一の規模を誇っていたアメリカコニーアイランドの遊園地とドイツハーゲンベック動物園を参考とし、小動物園、自動木馬、そして8人乗りロープウェイの「航空艇」を設置した。屋上両端を往復する、銀色の流線型ボディの航空艇は、眼下に隅田川が見渡せるとあって名物となる(当初の計画では、隅田川を越えて対岸から折り返し運転する予定だったが、許可が下りず断念した)。その他ではローラースケートやボウリング、パネルに得点などが表示されるシステムの固定設置である自転車競走とボートレース競技、2人がかりで操作する競馬機、半弓射撃機、自動キネマ、パチンコで菓子が出てくる遊技機などが揃っていた。

松屋浅草店開店時の新聞広告では「松屋七階に大スポーツランド出現」と大々的な告知がされた[2]。それは同じ下町でも、主に山の手層が利用する日本橋と銀座、そして既に一大ターミナル駅となっていた新宿のデパートとは異なり、庶民層の利用が多い浅草を意識した戦略だった。その松屋浅草店の威容は、周辺に高い建物がなかった当時では一際抜きん出た存在で周囲を圧倒していた。

連日大盛況だったスポーツランドだが、傍観する者がほとんどで実際に遊ぶ者は少なかった[2]。そんな状況が2か月続いた事から、日本娯楽機械製作所社長の遠藤はプランを練り直し、豆汽車、豆自動車、コーヒーカップ、人力で押して回る象乗り機など、親子共々で遊べる遊具に変更し、大当たりし始める[2]。中でも、板金製のボディに車のパーツを使用した豆自動車は時速15キロほどのスピードが出ることから人気が高く、専属係員を約20名要するほどの過熱ぶりであった。

日本娯楽機械株式会社(現 ニチゴワールド株式会社:鈴木徹也会長)が発行した1935年(昭和10年)頃のカタログによれば、伊勢丹上野銀座松坂屋を始めとして、北は北海道から南は九州のデパート、さらには満州へ遊具の納入が及ぶほど勢いづき、そのカタログには前述の遊具以外にも様々な種類が存在した。しかし、そんな好況も第二次世界大戦太平洋戦争)が始まるにつれ、戦時下の国家統制によって日本全国の遊園地や遊技場は次々と閉鎖。松屋浅草店の航空艇はむろんのこと金属類は全て供出され、木材に至っては銭湯の焚き付けへと姿を変えた。
戦後復興期銀座松屋の屋上(1967年)

長かった戦争もようやく終わりを告げ、1946年(昭和21年)12月に、松屋浅草店1階の150坪でスポーツランドは再開した。銀座店・横浜店は進駐軍に接収されたが、浅草店は免れたことで早期復旧へと繋がる。豆汽車3両、自動木馬3台、ボール投げ1台を遠藤は製作し、娯楽に飢えていた子供達から大好評を博す。次第に都市復興の兆しが見え始めていた1949年(昭和24年)になると、複式飛行塔を屋上へ設置。翌1950年(昭和25年)には航空艇を設置していた南端台座に、60人乗りとなる「スカイクルーザー」が登場する。土星に似た斬新なデザインで、360度水平回転し浅草の街や隅田川を見下ろせるスカイクルーザーは、まるでビルの外へ放り出されそうになる重力感とスピード、スリルが味わえることから人気が殺到した。そして、夜は縁取られたネオンによって爛々とした光彩を放ち、その姿は浅草の新たなシンボルでもあった。また、多くの映画やハリウッド映画のロケに使われたり、日曜祝祭日には多くの家族連れやカップル(当時の用語では「アベック」)で賑わうなどして、その人気はかつての飛行艇を凌ぐほどの様相を呈していた、しかし老朽化と危険防止のため1960年(昭和35年)、わずか10年で撤去。

同じ頃、日本橋三越では常設による屋上遊園地がなかったものの、様々な催しが開かれた。1955年(昭和30年)にお猿の電車「ニコニコ号」を、1958年(昭和33年)にはパノラマや模型を駆使してディズニーランドの全貌を紹介する「こどもの夢の国!楽しいディズニーランド 」を開催する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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