屋上の狂人
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屋上の狂人
訳題The Housetop Madman
作者
菊池寛
日本
言語日本語
ジャンル戯曲
幕数1幕
初出情報
初出第四次『新思潮1916年5月号・第1年第3号
刊本情報
収録『心の王国』
出版元新潮社
出版年月日1919年1月8日
初演情報
場所帝国劇場
初演公開日1921年2月
主演14代目 守田勘彌2代目 市川猿之助
ポータル 文学 ポータル 舞台芸術
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『屋上の狂人』(おくじょうのきょうじん)は、菊池寛の戯曲。京都帝国大学卒業を目前にした1916年(大正5年)5月に発表した一幕物で、それまでの筆名「草田杜太郎」を廃し、本名の「菊池寛」を用いた初めての作品である[1][2][3][4]

狂人を無理やりに常人にすることが、必ずしも幸福になるとはかぎらず、狂人のままでいる方が幸福かもしれない、という逆説を主題にした作品で[2][5][6]、条理を超えた肉親間の情愛を描いた『父帰る』と並ぶ、菊池の戯曲を代表する作品である[2][6][7][8]
発表経過

菊池寛が京都帝国大学英文科を卒業する年の1916年(大正5年)の2月に同人誌の第四次『新思潮』が復刊され、その5月号・第1年第3号に「屋上の狂人」は掲載された[1][4][9]。その際に、それまでの第三次『新思潮』で使用していた筆名「草田.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}杜太郎(もりたろう)」から、本名の「菊池寛」を用いるようになった[1][2]。本名に変えた動機に関しては特に語られておらず不明であるが、卒業を間近にひかえていた時期であることから、今後文壇に乗り出すためには文学青年風の筆名よりも本名の方がいいと思ったからではないかと推察されている[2]

『新思潮』時代、菊池の戯曲はほとんど注目されなかったため、京大を7月に卒業し時事新報社社会部の記者の職に就きながら、戯曲より小説の方の執筆に重きを置くようになった菊池は、1918年(大正7年)に『中央公論』に発表した「無名作家の日記」や「忠直卿行状記」で文壇に認められ、その後芥川龍之介の伝手で大阪毎日新聞の客員となり1920年(大正9年)に新聞連載した通俗小説「真珠夫人」で流行作家として世間に広く認知された[10][11]。それを機に無名新人時代の戯曲「父帰る」などが舞台上演され、その流れで「屋上の狂人」も翌年1921年(大正10年)2月に帝国劇場で初上演された[2][4][8][9]

単行本の刊行は、新潮社から1919年(大正8年)1月8日に上梓された『心の王国』に収録され[4][7][12]、翌1920年(大正9年)4月10日に同社から刊行された『藤十郎の恋』にも収録された[4][12]

全集収録は、春陽堂から1921年(大正10年)5月21日刊行の『菊池寛戯曲全集 第1巻』に収録された[4]。その後は平凡社から1929年(昭和4年)6月10日刊行の『菊池寛全集 第3巻』、中央公論社から1937年(昭和12年)6月21日刊行の『菊池寛全集 第1巻』に収録された[4]
あらすじ

明治30年代のある初夏の日、瀬戸内海讃岐に属する小さな島に暮らす屈指の財産家・勝島家の長男である義太郎は、屋根の頂上にうずくまって海を見ていた。

太陽が照りつける焼け石のような屋根瓦にいる狂人の息子が暑気あたりにならないか心配する父の義助や下男の吉治が、すぐ降りてくるように裏庭から呼びかけるが、義太郎は駄々をこねて嫌がり、「金比羅さんの天狗さんの正念坊さんが雲の中で踊っとる、の衣を着て天人様と一緒に踊りよる、わしに来い来い云うんや」と無邪気なことを言うばかりであった。

義太郎は幼い頃から高いところに登りたがる癖があった。成長すると庭の公孫樹の大木のてっぺんの枝に腰かけていたこともあり、両親はハラハラしたものだった。そのため庭の大木は、今は全部切ってしまっている状態である。しかし義太郎をずっと座敷牢の中に閉じ込めておくことも不憫に思う義助が息子を出してやると、隙を見てたちまち屋根に登ってしまうのだった。

義助に命じられ下男の吉治がハシゴを取りに行った後、隣家の藤作がやって来た。藤作は、狂人の息子の行動に悩む義助に向って、昨日から島に来ている金比羅巫女に祈祷して見てもらったらどうかと勧めた。義助はそれを頼み、家の中にいる妻のおよしを呼んだ。ハシゴで屋根に登った吉治が義太郎をなんとか下に降ろし、やがて中年の巫女がやって来た。

巫女は、自分に反抗的態度をとる義太郎に狐が憑いていると言い、呪文を唱えて奇怪な身振りで狂ったように廻った後に昏倒するが、再び立ち上がると「我は当国象頭山に鎮座する金比羅大権現なるぞ」と声音を変えて話し出した。義太郎を除く一同が「へへっ」と腰を屈めて低頭する中、巫女は、この家の長男に憑いている狐を祓うため、木で吊して青松葉で燻べてやれと告げた。そして再び昏倒した後に普通の声に戻った。

義助とおよしは、そのお祓い法がいくらなんでもむごいと思い少し戸惑うが、すぐにやらないと罰があたると巫女から脅され、義助は吉治に青松葉の用意をさせた。不満顔の義太郎は「金比羅さんの声はあなな声でないわい。お前のような女子(おなご)を、神さんが相手にするもんけ」と全く相手にせず、自尊心を傷づけられた巫女はますます義太郎を狐扱いにして罵倒する。

義助は巫女に急かされ、吉治と協力して義太郎の顔を燻べた松葉の煙の中へ入れようとした。義太郎は「厭やあ、厭やあ」と大声をあげて激しく抵抗し、母のおよしは息子を可哀想に思いオロオロするばかりであった。

そこへ、義太郎の弟・末太郎が学校から帰ってきた。義太郎は救主を得たように弟に助けを求めた。状況を理解した末太郎は松葉の火を踏み消して巫女を詐欺師だと喝破し、藁にもすがる思いで馬鹿なことをしている父親たちを諭し始めた。末太郎は、兄が屋根の上で幸福そうにしている様を「兄さんのように毎日喜んで居られる人が日本中に一人でもありますか。世界中にやってありゃせん」と言って、苦しむためにわざわざ正気になることもないと断じた。

末太郎が藤作に、巫女を連れて帰ってくださいと頼むと、侮蔑され憤慨した巫女は再び先ほどと同じような呪文を唱えて神が乗り移ったふりをしながら、弟は兄の病気が治ると家の財産が全て兄のものになるため利欲の心よりなり、と告げた。末太郎は詐欺師の巫女を突き倒し、「きさまのようなかたりに兄弟の情が分るか」と罵倒し退散させた。

内心、巫女の祈祷を怪しいと思っていた両親はほっとしたようになるが、「お前兄さんは一生お前の厄介やぜ」と末太郎を心配した。すると、末太郎は「何が厄介なもんですか。僕は成功したら、鷹の城山の頂辺へ高い高い塔を拵えて、そこへ兄さんを入れてあげるつもりや」と言った。

そんなふうに一同が話している最中、義太郎はいつの間にか再び屋根の上にいた。下の4人は義太郎を見上げて微笑み合った。空を見ている義太郎は、弟の末太郎に向って「末やあ! 金比羅さんに聞いたら、あなな女子知らん云うとったぞ」と言うと、末太郎は「そうやろう。あなな巫女よりも兄さんの方に、神さんが乗り移っとんや」と応えた。

その頃はもう両親らは家の中に戻って、庭には末太郎だけがいた。雲が動いた空が金色の夕日に輝くと、向こうの雲の中に金色の御殿が見えると義太郎ははしゃぎ、「綺麗やなあ」と感嘆した。末太郎は自分が狂人でないことの悲哀をやや感じているかのように「ああ見える、ええなあ」と同調した。「ほら! 御殿の中から、俺の大好きな笛の音がきこえて来るぜ! ええ音色やなあ」と義太郎は歓喜した。
登場人物
勝島義太郎
狂人。24歳。勝島家の長男。屋根の上に登って海上の空を眺めるのが好き。小さい時から高いところに上りたがり、4、5歳の頃は床の間、仏壇、棚の上に上り、7、8歳になると猿のようにスルスルと木登りをし始め、15、6歳になると山の頂上まで登っては独り言で天狗や神と話すようになる。屋根から降ろされそうになると、
外道が近寄るのを怖れる仏徒のように嫌がり抵抗する。屋根から落下し右足を負傷したことがあり、びっこになっている。「勝島の天狗気違」という噂が高松の町まで広がっている。
末次郎
義太郎の弟。17歳の中学生。町の学校に行っている優等生。兄思い。色の浅黒い凜々しい少年で、おかしな祈祷をする巫女を詐欺師と喝破する。
義助
義太郎と末次郎の父。狂人の長男・義太郎がいつも屋根の上に登る有様を世間体を気にして苦にしている。
およし
義太郎と末次郎の母。最初は巫女の祈祷で息子の病が治ることを期待するが、巫女の手荒な療治法を「そななむごい事が出来るもんかいな」と、息子を可哀想に思う。
藤作
隣の人。家人の「清吉」とともに網でなどを捕って暮らしている。巫女に怒る末次郎をなだめながら、巫女を連れて帰っていく。
吉治
下男。勝島家の召使い。義太郎を「若旦那」と呼ぶ。吉治が小さい頃には庭に大きな公孫樹の木があった。
巫女と称する女
50歳くらい。陰険な顔色をした妖女のような女。金比羅の巫女と名乗り、前日から島を訪れている。勝島家を去り際に、「神さまが乗り移って居る最中に私を足蹴にするような大それた奴は今晩迄の命も危ないぞ」と捨て台詞を吐く。
作品背景

※菊池寛の作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。
京大で触れたアイルランド戯曲

1913年(大正2年)4月、同級の友人・佐野文夫の身代りとなって第一高等学校第一部乙類を退学となった菊池寛は(詳細は「マント事件」を参照)、同校の友人・成瀬正一の助け舟で彼の家に寄宿しながら学資の援助も受け、同年9月に京都帝国大学英文科の選科に進学した(翌年からは本科)[1][3][13][14][15]。菊池は成瀬ら一高の友人たちが進む東京帝国大学文科に自分も行きたかったが、文科学長の上田萬年の認可が下りず叶わなかった[14][15]

一高の文芸第一主義に比べて京大は文学的には〈いなか〉であり、ことに1年生の頃の菊池は選科生であることに屈辱や孤独を感じていた[1][16][17]。京大には芥川龍之介久米正雄のような、文学について意見を交換できる刺激的なライバルの友もいなかった[1][16][18][注釈 1]

東京にいる友人たちから1人だけ取り残されたような焦燥感や孤独を紛らわすため、入学当初から菊池は研究室や図書館に入り浸って内外の様々な読書に熱中した[1][17][18][20]。京大の研究室には東大よりも近代文学に関する書物が豊富だった[1][17][18][20]。そのため菊池は東京にいた時よりも〈二倍か三倍位多くの本〉を読むことが出来た[1][15][17]

以前から興味を持っていたイギリス文学江戸文学のほか、菊池は同校教授の上田敏から聞いたジョン・ミリントン・シングに強く惹かれ、他にもロード・ダンセイニオーガスタ・グレゴリーなどのアイルランド(愛蘭)戯曲のほとんどを読破した[1][17][18][21][22]。私は研究室にあつた脚本は、大抵読んだ。それは、東京の文科の図書室などには決してない新しいものばかりだつた。それが、京都大学にゐた第一の収穫だつた。 ? 菊池寛「半自叙伝」[18]

アイルランド戯曲に傾倒した菊池は、〈愛蘭(アイルランド)人の民族的覚醒〉を築いたウィリアム・バトラー・イェイツ、シング、グレゴリーなどの〈郷土芸術〉に注目し[23][24]、彼らの〈愛蘭土国民文学運動〉である「アイルランド文芸復興運動」をモデルに、京都をダブリンに重ねて〈京都の芸術復興(ルネッサンス)〉を、「草田杜太郎」名義で『中外日報』で呼びかけたこともあった[24][25][26][27]


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