尾高長七郎
生誕天保7年(1836年)[1][2]
武蔵国榛沢郡下手計村
死没明治元年11月18日(1868年12月31日)
武蔵国榛沢郡下手計村
墓地尾高家墓域(埼玉県深谷市)
国籍 日本
別名弥三郎、弘忠、省斎、東寧
出身校尾高塾、練武館、海保塾
流派神道無念流、心形刀流
親戚渋沢栄一、渋沢成一郎
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尾高 長七郎(おだか ちょうしちろう、天保7年(1836年)[1][2][3][注 1] - 明治元年11月18日(1868年12月31日))は、幕末の剣術家、尊皇攘夷派の志士[2]。流派は神道無念流、心形刀流。幼名は弥三郎、諱は弘忠[5]。号は省斎[5]、または東寧[6]。
尊攘派の志士として文久2年(1862年)1月の坂下門外の変の謀議などに参加[2][3]。文久3年(1863年)の尾高惇忠や渋沢栄一らによる高崎城襲撃計画・横浜異人街の攘夷計画では反対の立場をとり中止させた[2][3][7]。この後、誤って通行人を切りつけた罪で投獄され、明治維新のさなかに出獄してすぐに病没した[2][3]。 武蔵国榛沢郡下手計村(後の埼玉県深谷市下手計)で搾油業、製藍業、名主[8] を務める父・尾高勝五郎、母・やへ[注 2]の次男として生まれる[10]。6歳上の兄には尾高惇忠(新五郎、藍香)、姉には、みち[9][注 3]、こう[9][注 4]、妹には、ちよ[9][注 5]、くに[9][注 6]、11歳下の弟には尾高平九郎がいる[5]。従兄弟には渋沢栄一と渋沢喜作(成一郎)がいる[5]。 尾高家は岡部藩藩主・安部氏の下で下手計村の里正を代々務め、名字帯刀を許されていた[13]。また、深谷市岡部の源勝院にある安部家旧臣碑には「尽力組(足軽)跡相続人・大字下手計・尾高節太郎」とある[14]。 少年時代から文武の才能に恵まれたが特に剣術に秀でており[6]、叔父の渋沢宗助(新三郎)が開いた神道無念流道場「練武館」に入門し、惇忠、栄一、喜作らとともに稽古に励んだ[15]。長七郎が残した『剣法試数録』には、嘉永4年(1851年)にこなした試合数と稽古数が記されている[10]。同書によれば、4月と12月の寒稽古の時期に集中的に試合が組まれたことや、父・勝五郎、尾高家の傭人となっていた甲源一刀流・高橋三五郎の弟子、練武館の面々との試合のほか、宗助の師匠にあたる大川平兵衛や平兵衛の次男・修三(周造、周蔵)が出稽古に訪れ、直接指導を受けたことが記録されている[15][16]。やがて17歳から18歳の時(安政元年から2年)に中印可を受ける[6] と両毛地方などへ武者修行の旅に出たと見られている[16]。22歳から23歳のころ(安政6年から万延元年)に免許皆伝を受けた時には、兄・惇忠を凌ぐほどの技術を身に着けていた[16]。 長七郎は宗助の勧めや惇忠の賛同もあり、文武の修行のために江戸に出ると[17][注 7]、海保漁村の下で儒学を[20]、講武所剣術教授方を務める伊庭秀俊 また、時期は定かではないが、北辰一刀流・千葉栄次郎の門弟、真田範之助、村上右衛門助が他流試合のため練武館を訪れた際に、惇忠とともに立ち会った[23]。一本目の惇忠・真田戦は勝負がつかず、二本目と三本目の長七郎・村上戦はいずれも長七郎が勝利、さらに四本目で長七郎と真田が対戦したが、これも長七郎が勝利した[24]。真田と村上は武者修行を終えて江戸の道場に戻ると、安中藩の根岸忠蔵の名とともに長七郎の名を挙げて「江戸で幾十人かの大家があるが、彼等に対して必勝の可能性ある者は果たして有るか否か知れない」と語ったといい、長七郎の名は「天狗の化身」の異名と共に関八州に知られるようになった[25]。 長七郎は江戸遊学時代に長州藩の久坂玄瑞や多賀谷勇、薩摩藩の中井弘や伊牟田尚平、佐賀藩の中野方蔵、水戸藩の原市之進、出羽国の清河八郎[注 8]らといった尊皇攘夷派の志士たちと交流を持った[27]。
生涯
出自
剣術家として
尊攘派志士として