尾澤醫院(おざわいいん、Ozawa Clinic)は、東京都世田谷区にあった診療所。遅くとも1932年までには竣工していたと推定される歴史的な建造物が遺されている。敷地内の洋館には診療施設に加えて住居が併設されていることから、洋館を尾澤醫院兼住宅(おざわいいんけんじゅうたく、Hospital / Residence Ozawa)と呼ぶこともある。また、洋館は方齋庵(ほうさいあん、Hosaian)との異名で呼ばれることもある。「澤」「醫」「齋」といった文字は常用漢字表に収録されていないことから、尾澤医院(おざわいいん)、尾沢医院(おざわいいん)、尾澤医院兼住宅(おざわいいんけんじゅうたく)、尾沢医院兼住宅(おざわいいんけんじゅうたく)、方斎庵(ほうさいあん)とも表記される。なお、同じ敷地内に隣接して尾沢歯科医院(おざわしかいいん、Ozawa Dental Clinic)が所在していた。 敷地内の洋館は、陸屋根を持つ2階建ての木造建築であり[1]、屋上に設けられた塔屋や[1]、側面のベイウィンドウなどにより[2]、凹凸のある特徴的な外観を呈している[3]。リシン掻き落とし仕上げ[1]、スペイン瓦[1]、丸窓など[2]、スパニッシュ様式の特徴を備えているが[3]、スクラッチタイル[1]、アールデコ調の文様のある格子など[4]、アール・デコの建築様式の特徴も兼ね備えている[3]。さらには、幾何学的造形が志向されていた創建当時の流行や[5]、ライト風建築の影響も見受けられ[5]、大正から昭和初期にかけて流行していた多様なスタイルや仕様が混然一体となっている[4]。個々のスタイルや仕様については他の建築物でも確認できるが、このように多様なスタイルや仕様を全て併せ持った建築物は貴重とされている[4]。これらの重要性に鑑みて、世田谷区教育委員会事務局では、この洋館を世田谷区指定文化財の候補として位置づけている[6][7]。 開設者の尾澤章は、1898年に生まれ、日本医科大学医学部を卒業し医師となった[8]。医師として活動する傍ら、三東礦業の取締役など会社役員も務めていた[9]。章の父である尾澤光章も医師であり、日露戦争に軍医として出征したのち、清の黒竜江省ハルビン市で開業医として活躍した[註釈 1][8]。光章は大正年間に日本に帰国し、東京府荏原郡世田ヶ谷町に居住した[註釈 2][8]。尾澤家は近隣の豪徳寺の檀家であり、尾澤邸に豪徳寺の僧侶を下宿させるなど密接な関連があった[8]。このような経緯もあり、章が医師として開業するにあたって、豪徳寺の所有地を借りて尾澤醫院の診療施設を建設することになった[8]。章は内科、小児科に加えて外科も手掛けており、北多摩郡府中町あたりにまで往診した[註釈 3][8]。太平洋戦争が始まると、尾澤醫院は救護所に指定された[8]。また、尾澤醫院の敷地内には防空壕が2つあったことから、アメリカ合衆国による空襲の際には、近隣住民もこの壕に避難していた[8]。終戦直後は、自宅を失った戦災者らが病棟に一時居住していた[8]。章は1966年に亡くなったため[8]、尾澤醫院は廃業することになった[10]。 なお、章の長男である尾澤彰宣も信州大学医学部を卒業して医師になったが、大学病院の勤務医を務めており尾澤醫院は継がなかった[10]。章の二男は歯科医師となったが、尾澤醫院と同じ敷地内の別棟にて尾沢歯科医院を開業していた[註釈 4][10]。そのため、章の没後、尾澤醫院の建造物は診療施設としては使用されず、章の五男の事務所などとして使用されることになった[10]。 尾澤醫院兼住宅
概要
来歴尾澤醫院の航空写真(2009年4月27日撮影)
方齋庵
Hospital / Residence Ozawa
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情報
用途事務所
旧用途診療所
住宅
設計者不明
設備設計者伊勢彦治
建築主尾澤章
構造形式木構造
階数2階建て
竣工遅くとも1932年には竣工
所在地〒154-0017
東京都世田谷区世田谷2丁目6番5号
備考私有地内に立地しており非公開
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