尾澤正毅
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尾澤 正毅

尾澤 正毅
(おざわ まさき)ja
誕生日
1936年
出生地 長野県
死没年2010年
国籍 日本
民族大和民族
芸術分野彫刻
出身校東京芸術大学
美術学部卒業
代表作『向』(1980年
『女83-1』
1983年
『胸像SF-84』
1984年
『清清』(1989年
活動期間1950年代 - 2010年
影響を受けた
芸術家石井鶴三
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尾澤 正毅(おざわ まさき、1936年 - 2010年)は、日本彫刻家教育者教育学者美術教育)。福井大学名誉教授の「澤」は「沢」の旧字体のため、新字体で尾沢 正毅(おざわ まさき)と表記されることもある。

東京都公立高等学校講師、福井大学教育学部教授、福井大学教育地域科学部教授などを歴任した。
概要

長野県出身の彫刻家である[1]東京芸術大学美術学部を卒業後[1]、彫刻家として活動した。また、並行して、東京都公立高等学校にて非常勤で教鞭を執った[1]。のちに福井大学に奉職し[1]教育学部にて助教授教授を務め[1]、さらに教育地域科学部の教授を務めるなど、後進の育成にも力を注いだ。2005年国民文化祭では彫刻部門の審査員を務めており[2]福井県立美術館では実技講座専門彫刻の講師を務めるなど[3]地域社会芸術の振興にも力を尽くした。
来歴
生い立ち

1936年[1]長野県にて生まれた。長野県上田松尾高等学校にて学んだ[1][註釈 1]。長野県上田松尾高等学校を53期生として卒業した[4]。その後、上京して東京芸術大学に進学し[1]美術学部の彫刻科にて学んだ[1]。大学では同級生の横澤英一らとともに、石井鶴三の門下となった[1]
彫刻家として

大学卒業後は彫刻家として活動した。新垣純一、岩村守、大里八郎、喜屋武貞男と五人展を開くなど[5]、精力的に活動した。また、東京都公立高等学校にて、講師非常勤で務めていた[1]

その後、福井大学常勤教官として採用され[1]教育学部助教授に就任した[1]。のちに教育学部の教授に昇任した[1]。なお、1999年には教育学部が教育地域科学部に改組されたが、引き続き勤務した。福井大学では24年間に渡って教鞭を執り[3]、後進の育成に尽くした。なお、広島市立大学[3]愛知県立芸術大学[3]、といった他の教育・研究機関においても、講師を非常勤で兼任した[3]2002年3月、福井大学を退職した[3]。退職に際して、福井大学より名誉教授称号が授与された[6]

なお、福井県芸術振興にも尽力した。1996年から2002年にかけて、福井県立美術館にて実技講座専門彫刻の講師を務めた[3]。福井大学を退職してからも福井県を度々訪れ[3]、「市美展ふくい」や「福井市彫刻のある街づくり」などに携わった[3]2005年に福井県で開催された国民文化祭では、彫刻部門において雨宮敬子加藤昭男中原佑介、林武史とともに5名の審査員のうちの一人として名を連ねた[2]。また、長野県の芸術振興にも尽力した。出身地である上田市美術館建設研究委員会にて、荒井潤、太田圭、金子敏彦、窪島誠一郎、佐藤悦夫、清水義博、橋詰昌義、米津福一とともに9名の委員の一人として名を連ねた。

2010年に死去した[3]
作風

専門は彫刻であり、石膏ブロンズテラコッタなどで全身像や半身像などを制作していた[1]。作風については、特に「『線』と『奥行き』にこだわって制作した」[3]と評されている。数多くの作品が公共の場にも設置されており、福井県においては、福井大学教育学部附属義務教育学校[3]、鯖江市東陽中学校[3]、といった学校などに常設されている。

長野県においては、母校である長野県上田松尾高等学校の流れを汲む長野県上田高等学校に、『向』と題したブロンズ像が設置されている[1][4]。これは、同校の48期生が卒業30周年を機にブロンズ像の寄贈を計画し[4]、後輩である尾澤に制作を打診したものである[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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