おざわ しゅうじ
尾澤 修治
生誕1907年
死没1997年
国籍 日本
職業公認会計士
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尾澤 修治(おざわ しゅうじ、1907年 - 1997年)は、日本の銀行家、公認会計士、税理士、不動産鑑定士。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、新字体で尾沢 修治(おざわ しゅうじ)と表記されることもある[1]。
株式会社住友銀行東京支店次長、尾澤会計事務所所長(初代)、監査法人朝日会計社理事長(初代)、日本公認会計士協会会長などを歴任した。 三井住友銀行の前身である住友銀行に勤務していたが[2]、病気により退職することになった[3]。その後、公認会計士を目指し[3]、やがて65歳にして監査法人朝日会計社を創設した[3]。初代理事長として、同法人を大手会計事務所の一角に食い込むほどに育て上げ、のちの有限責任あずさ監査法人の礎を築いた。そのほか、日本公認会計士協会で会長に就任するなど[4]、さまざまな公職を歴任した。 1907年(明治40年)長野県諏訪郡平野村(現在の長野県岡谷市)に生まれ、長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業して、住友銀行に入社した[3][註釈 1]。行内では「経営相談室」を新設し[3]、顧客の経営上の課題についてともに解決を図るなど、今でいう経営コンサルティング業務にも力を入れていた。住友銀行においては、東京支店の次長まで昇進した[3]。しかし、病魔に侵され[3]、やむを得ず退職することになった[3]。 住友銀行退職後、今までの経験を生かせる仕事として会計や税務に着目し、一念発起して公認会計士を目指すことにした[3]。1952年(昭和27年)10月、公認会計士登録[5]。それに伴い、尾澤会計事務所を開設し[5]、所長に就任した。1959年(昭和34年)12月、税理士登録[5]。それに伴い、税理士としての業務を開始した[5]。 1969年(昭和44年)7月[2][5]、65歳にして監査法人朝日会計社を起ち上げ[3][註釈 2]、代表社員に名を連ね[2][5]、初代理事長に就任した[5]。住友銀行での前歴を生かし、白水会加盟社など住友グループに属する企業に狙いを定め、積極的に顧客獲得に動いた。その結果、住友銀行[2]、住友商事[2]、住友金属鉱山[2]、住友化学など[2]、多数の大手企業をクライアントに抱えることになり[2]、瞬く間に大手会計事務所の一角を占めるに至った。その結果、監査法人朝日会計社は「住友監査法人」[2]と揶揄されるほどであった。また、日本国外の業務については、当時「ビッグ8」と呼ばれていた世界八大会計事務所の一角を占めるアーサー・ヤングと提携することにした[註釈 3]。後年、監査法人朝日会計社は他の会計事務所との合併を繰り返して有限責任あずさ監査法人となり、「ビッグ4」と呼ばれる世界四大会計事務所の一つであるKPMGのメンバーファームとなった。 また、さまざまな公職も歴任した。認可法人の一つである日本公認会計士協会においては、1976年(昭和51年)に会長に就任することになり[4]、1979年(昭和54年)に至るまで務めた[4]。その後、1997年(平成8年)に亡くなった[6]。 監査法人朝日会計社を育て上げた手腕は高く評価され、「カリスマ性を持った代表社員」[2]と謳われており、その影響力は極めて大きかった。たとえば、監査法人朝日会計社の流れをくむあずさ監査法人では[註釈 4]、歴代理事長のほとんどが、監査法人朝日会計社時代に尾澤のセクションに属していた元部下である[2]。一例として、あずさ監査法人の初代理事長を務めた岩本繁は、公認会計士になる前から尾澤会計事務所のスタッフとして勤務しており、のちに尾澤に従い監査法人朝日会計社に入社した人物である。 なお、尾澤会計事務所のスタッフの中には、公認会計士としてだけではなく実業家として活躍する者も多い。あずさ監査法人理事長を経て三井住友フィナンシャルグループ取締役となった岩本繁をはじめ、ソディック監査役となった大木國男、日本振興銀行取締役を経てスクウェア・エニックス・ホールディングス監査役となった富山正次、などはいずれも尾澤会計事務所のスタッフだった経験を持つ。
概要
来歴
銀行家として
公認会計士として
人物
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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