凡例尾張兼時
時代平安時代中期
生誕不明
死没不明
官位左近衛将監
主君村上天皇→冷泉天皇→円融天皇→花山天皇→一条天皇
氏族尾張氏
父母父:尾張安居
兄弟兼時、兼国
子男子、藤原輔尹母、下毛野公友室
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尾張 兼時(おわり の かねとき)は、平安時代中期の官人・楽人
。官職は左近衛将監。兼時は藤原教通や藤原能信らを弟子とするほど舞に秀で、寛弘元年(1004年)5月に花山天皇が道長邸を訪れた際は舞を披露している。しかし寛弘7年(1010年)頃になると老いによる体力の衰えから、かつてのように舞えなくなったという[1]。
兼時は『小右記』『今昔物語集』『紫式部日記』などに度々登場する御神楽の舞の達人である一方、多(または物部)武文と並んで、村上朝から一条朝まで活躍する、くらべうまの強豪騎手でもあった[2]。 『今昔物語集』の巻28第1話『近衛舎人共稲荷詣重方値女語』において、兼時は下野公助・茨田重方・秦武員・茨田為国・軽部公友らと近衛府の舎人として名前だけで登場する。初午の稲荷詣での際に茨田重方がナンパしようとした女性は実は重方の妻で、重方は赤恥をかいたという逸話である。 『今昔物語集』の巻28第5話『越前守為盛付六衛府官人語』では、越前国司の藤原為盛が租税を朝廷へ送らなかったことから、これを責めるために兼時が派遣されるが、為盛は酒の中に下剤として作用するあさがおの種を仕込み、兼時ら取り立て人を追い払ったという逸話である。その昔、越前国司の藤原為盛という人が朝廷への税を出し渋っておりました。役人たちは為盛の邸宅の外に簡易の日除けを作り、椅子に座って威嚇しました。これは六月(旧暦)(新暦の6月下旬から8月)の事でしたから、喉を乾かして役人たちは待っていました。その時、門から老人が出てきて、「女子供が怯えておりまして、為盛に会うのは今しばらく。喉も乾いたでしょうから、中へどうぞ」と言いました。役人たち、特に数々の武勇伝を持つ尾張兼時や下毛野敦行
逸話
系譜
父:尾張安居[4]
母:不詳
兄弟:尾張兼国[5]
生母不明の子女
男子:不詳 - 子に尾張安行[6]
女子:藤原輔尹母[7]
女子:下毛野公友室 - 下毛野公時母
脚注^ 『御堂関白記』寛弘7年4月24日
^ 甲田[1987: 345]
^ 原文は近代デジタルライブラリーから。
^ 読みは「おわり の やすすえ」
^ 読みは「おわり の かねくに」
^ 読みは「おわり の やすゆき」
^ 『枕草子』
参考文献
甲田利雄『校本江談抄とその研究上』続群書類従完成会、1987年
『御堂関白記』
『権記』