尾崎 紅葉
(おざき こうよう)
誕生1868年1月10日
日本・江戸芝中門前町
(現・東京都港区芝大門)
死没 (1903-10-30) 1903年10月30日(35歳没)
日本・東京府東京市牛込区横寺町
(現・東京都新宿区横寺町)
墓地青山霊園
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴帝国大学国文科中退
活動期間1889年 - 1903年
ジャンル小説
文学活動擬古典主義・硯友社
代表作『二人比丘尼色懺悔』(1889年)
『伽羅枕』(1890年)
『二人女房』(1892年)
『三人妻』(1892年)
『多情多恨
尾崎 紅葉(おざき こうよう、1868年1月10日(慶応3年12月16日) - 1903年(明治36年)10月30日)は、日本の小説家。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千万堂」「花紅治史」などの号も持つ。
帝国大学国文科中退。1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され(紅露時代)、明治期の文壇に重きをなした。
泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など優れた門下生がいる。
俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称された。 1868年1月10日(慶応3年12月16日)、江戸(現東京都)芝中門前町(現在の芝大門)に生まれる。父は根付師の尾崎谷斎(惣蔵)、母は庸。もともと尾崎家は伊勢屋という商家であると推定されるが、惣蔵の代には既に廃業していたようである。伊勢屋は呉服屋説と米問屋説があるが不明である。尾崎家の家紋は丸に違い鷹の羽であるが、屋号には五鐶の中央に数字の三の記載のある紋が使われていたとの記録がある。1872年(明治5年)、母と死別し、母方の祖父母荒木舜庵、せんの下で育てられる。寺子屋・梅泉堂(梅泉学校、のち港区立桜川小、現在の港区立御成門小)を経て、府第二中学(すぐに府第一中と統合し府中学となる。現在の日比谷高校)に進学。一期生で、同級に幸田露伴、他に沢柳政太郎、狩野亨吉らがいたが、中退。愛宕の岡千仭(岡鹿門)の綏猷堂(岡鹿門塾)で漢学を、石川鴻斎の崇文館で漢詩文を学んだほか、三田英学校で英語などを学び、大学予備門入学を目指した。 紅葉の学費を援助したのは、母方荒木家と関係の深い横尾家であった。紅葉が1899年(明治32年)に佐渡に旅した際に新潟で立ち寄ったのが、大蔵官僚で当時は新潟の税務署長をしていた伯父(母庸の姉婿)の横尾平太
生涯
1883年(明治16年)に東大予備門に入るが、それ以前から緑山と号して詩作にふけり、入学後は文友会、凸々会に参加し文学への関心を深めた。そして1885年(明治18年)5月2日、山田美妙、石橋思案、丸岡九華らとともに硯友社を結成、回覧雑誌『我楽多文庫』を発刊した。『我楽多文庫』1885年5月2日-1886年5月25日に「江島土産滑稽貝屏風」を連載した。最初は肉筆筆写の雑誌だったが、好評のために1886年11月1日活版化するようになった。1888年(明治21年)5月25日、『我楽多文庫』を販売することになり、そこに「風流京人形」を連載、注目を浴びるようになる。しかしその年、美妙は新しく出る雑誌『都の花』の主筆に迎えられることとなり、紅葉と縁を絶つことになった。
1889年(明治22年)、「我楽多文庫」を刊行していた吉岡書店が、新しく小説の書き下ろし叢書を出すことになった。「新著百種」と名づけられたそのシリーズの第1冊目として、紅葉の『二人比丘尼色懺悔』が刊行された。戦国時代に材をとり、戦で死んだ若武者を弔う二人の女性の邂逅というストーリーと、会話を口語体にしながら、地の文は流麗な文語文という雅俗折衷の文体とが、当時の新しい文学のあらわれとして好評を博し、紅葉は一躍流行作家として世間に迎えられた。この頃、井原西鶴に熱中してその作品に傾倒。写実主義とともに擬古典主義を深めるようになる。
一方、大学予備門の学制改革により、1886年(明治19年)に第一高等中学校英語政治科に編入。1888年(明治21年)、帝国大学法科大学政治科に入学、翌年に国文科に転科し、その翌年退学した。この前年の末に、大学在学中ながら読売新聞社に入社し、以後、紅葉の作品の重要な発表舞台は『読売新聞』となる。「伽羅枕」(1890年7月5日-9月23日)、「三人妻」(前編1892年3月6日-5月11日、後編7月5日-11月4日)などを載せ、高い人気を得た。このほか「である」の言文一致を途中から試みた「二人女房」などを発表。幸田露伴とともに明治期の文壇の重鎮となり、この時期は紅露時代と呼ばれた。
1895年(明治28年)、『源氏物語』を読み、その影響を受け心理描写に主を置き『多情多恨』などを書いた。そして1897年(明治30年)、「金色夜叉」の連載が『読売新聞』で始まる。貫一とお宮をめぐっての金と恋の物語は日清戦争後の社会を背景にしていて、これが時流と合い、大人気作となった。以後断続的に書かれることになるが、元々病弱であったためこの長期連載が災いし、1899年(明治32年)から健康を害した。療養のために塩原や修善寺に赴き、1903年(明治36年)に『金色夜叉』の続編を連載(『続々金色夜叉』として刊行)したが、3月、胃癌と診断されて中断。有毒成分も含まれるが、効能に優れると云われた薬用植物白屈菜(草の王/草の黄)を服用する等、進んでの治療を行ったが10月30日、自宅で没した。享年35。戒名は彩文院紅葉日崇居士[1]。紅葉の墓は青山墓地にあり、その揮毫は、硯友社の同人でもある親友巖谷小波の父で明治の三筆の一人といわれた巖谷一六によるものである。 紅葉の作品は、その華麗な文章によって世に迎えられ、欧化主義に批判的な潮流から、井原西鶴を思わせる風俗描写の巧みさによって評価された。しかし一方では、北村透谷のように、「伽羅枕」に見られる古い女性観を批判する批評家もあった。国木田独歩は、その前半期は「洋装せる元禄文学」であったと述べた。山田美妙の言文一致体が「です・ます」調であることに対抗して、「である」の文体を試みたこともあったが、それは彼の作品の中では主流にはならなかった。ただし、後年の傑作『多情多恨』では、言文一致体による内面描写が成功している。 紅葉は英語力に優れ、イギリスの百科事典『ブリタニカ』を内田魯庵の丸善が売り出した時に、最初に売れた3部のうちの一つは紅葉が買ったものだったという(ブリタニカが品切れだったのでセンチュリー大字典にした、とも。死期が近かった紅葉にとっては入荷待ちの時間が惜しかったようで、センチュリーの購入は紙幣で即決しており、内田魯庵はそれを評して「自分の死期の迫っているのを十分知りながら余り豊かでない財嚢から高価な辞典を買ふを少しも惜しまなかった紅葉の最後の逸事は、死の瞬間まで知識の要求を決して忘れなかった紅葉の器の大なるを証する事が出来る。(中略)著述家としての尊い心持を最後の息を引取るまでも忘れなかった紅葉の逸事として後世に伝うるを値いしておる。」と評している)[2]。その英語力で、英米の大衆小説を大量に読み、それを翻案して自作の骨子として取り入れた作品も多い。晩年の作『金色夜叉』の粉本として、バーサ・クレイ 20歳代で多くの弟子を抱えた。特に泉鏡花、徳田秋声、小栗風葉、柳川春葉の四人は藻門下(紅葉門下)四天王と呼ばれた。他、赤木巴山
作家評
年譜
1868年1月10日(慶応3年12月16日)、 江戸芝に生れる。
1883年(明治16年)9月、東京大学予備門に入学。
1885年(明治18年)
2月、硯友社を結成。
5月、「我楽多文庫」を発刊。
1887年(明治20年)4月、東京女子専門学校で漢学の教師のアルバイトをする。
1889年(明治22年)
4月、『二人比丘尼色懺悔』を刊行。
12月、読売新聞社に入社。
1890年(明治23年)帝国大学を退学。
1891年(明治24年)3月10日、樺島喜久と結婚。
1892年(明治25年)3月、「三人妻」を『読売新聞』に連載。
1893年(明治26年)
1月10日、長男弓之助が生れる(早逝)。
6月、「心の闇」を『読売新聞』に連載。
1894年(明治27年)
2月3日、長女藤枝が生れる。
同21日、父惣蔵死去。
1896年(明治29年)
2月、「多情多恨」を『読売新聞』に連載。
3月10日、次女弥生が生れる。
1897年(明治30年)1月、「金色夜叉」を『読売新聞』に連載。
1899年(明治32年)、健康を害する。6月に塩原、7月から8月にかけて新潟へ赴く。
1900年(明治33年)3月26日、三女三千代が生れる。
1901年(明治34年)
5月、療養のために修善寺へ赴く。
同20日、次男夏彦が生れる。
1902年(明治35年)、読売新聞社を退社し、二六新報に入社。
1903年(明治36年)10月30日、牛込区横井町(現在の新宿区横寺町)の自宅で胃癌により死去。
門下生
主な作品
『二人比丘尼色懺悔』(ににんびくにいろざんげ)(1889年)岩波文庫、1952年
『初時雨』昌盛堂 1889
『風流京人形』好吟会 1889
『此ぬし』春陽堂 1890
『新桃花扇・巴波川』吉岡書籍店 1890
『紅鹿子』春陽堂 1890
『伽羅枕』(きゃらまくら)(1890年、読売新聞)1891年春陽堂刊行。岩波文庫、1955年。 - お仙は、祇園の芸子と京在勤中の旗本水野石見守とのあいだの子だが、母の死後、米相場師西岡屋に養われ、贅沢に育てられる。十二歳で養家が破産し、「玉の輿への踏台」と島原の禿に売られ、十六歳で大阪の隠居に身請けされ、そして死別し、京在勤中の武士の妾になる。父に会いたい願いから、せがんでともに江戸に下るが、まもなく忘れ形見ひとりを残してその武士は死亡する。途方に暮れて石見守邸を訪ねると、父は十七年前に死去していた。大身の奥方になっている異母姉が、自分を懐かしがっていると聞き、上野山下で待ち合わせしていると、供の者に叱られて、駕籠に乗っている姉に近寄れない。二十二で、生きるためと、反発と対抗心から赤子を里子に出し、吉原に身を沈め、花魁佐太夫になる。波乱万丈の年月を遊女の意気と手管で送り、二十八で甲府に落ち、挙げ句の果てに鰍沢で六十七のハンセン病の老人の召使いになり、「作りける罪の無量なるを消滅せしむるため」の心願で、親切に看病し、全快させる。ふたたび男は持たぬと黒髪を切り、六十二のきょうまで団子坂の寮にこもって三十四名の遊客の亡魂を祀る。
『夏小袖』春陽堂 1892
「おぼろ舟」「むき玉子」1892年 2作合わせて明治25年2月単行本「二人女」として刊行。「おぼろ舟」 - 1890年3月読売新聞。維新前には旗本だった父に死なれて母と2人のお藤の家は、その日暮らしにも困るようになり、お藤が身を売るほかなくなる。せめてと妾の口を求めて口入屋でお目見えをすると、松本が即座に世話をしようと話が決まり、通ってくることになる。お藤は18の今まで知らなかった情愛を初めて味わい、夢にもうつつにも恋しい人が忘れられなくなる。しかしある夜、5、6日忙しくて来られぬと言って別れてから、松本はいつまでも姿を見せない。お藤は待ち焦がれてついに恋の病に日ごとにやせてゆく。母が心を痛めて松本の住まいで聞きただすと、社用で北海道に行ったという。そして浮気で女をもてあそんだ松本が、旅から帰り、お藤の真実心を知り、かけつけたときは可憐なお藤は焦がれ死にをした後であった。「むき玉子」 - 1891年1月読売新聞。パリで6年間修行した画家大久保蘭渓は、帰国後4年になるのに、何一つ世に出さない。弟子蘭山に来年の大共進会までにと勧められてその気になる。或る日の夕方、散歩の途中、垣根ごしに若い女の行水を見て、これこそは好図案であると制作にとりかかるが、思うように描けず、苦慮していると、蘭山はかねて目をつけていたお喜代の両親と交渉する。身を切られるほど貧しいお喜代は過分な報酬に家のためと承諾するが、人目に肌をさらすことのあさましさに、画室は地獄のように思われる。