尾崎秀樹
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尾崎 秀樹(おざき ほつき、1928年昭和3年)11月29日 - 1999年平成11年)9月21日)は、日本文芸評論家ゾルゲ事件の研究や、大衆文学評論に尽くした。

ゾルゲ事件の尾崎秀実は異母兄。同母妹の田才秀季子(ほすえこ)は、チェコ文学者田才益夫の妻[1]。妻の尾崎恵子は執筆のアシスタントでもあり、秀樹との共著が二冊ある。歴史学者政治学者今井清一は義理の甥(秀実の娘の夫)。
経歴
生い立ち

台湾台北州台北市に尾崎秀真と、愛人の吉田きみとの子として生まれ、母の私生児として育つ[2]。1933年に秀真の本妻が死去し、母が秀真の妻となり、秀樹も尾崎家に入籍する[3]

父尾崎秀真(尾崎白水)は美濃出身で戦前の台湾で歴史学者、漢詩人、文士、新聞記者(報知新聞記者、のち台湾日日新報記者ののち主筆)として活躍した[4]。秀真は新聞社退社後は、台湾総督府資料編纂官、台湾中学会(夜間中学)の経営などにあたる[5]

中学時代に兄秀実がゾルゲ事件で検挙され、家族は周囲から冷たい扱いを受けた。台北帝国大学附属医学専門部(中退)在学中に学徒動員により訓練や作業に就く。

終戦の翌年に母の実家福岡引き揚げ、その後岐阜に移り、ゾルゲ事件真相究明を志して上京。義姉を介して伊藤律の紹介で、中部民報東京支局に就職。日本共産党にも出入りし、1948年に入党、川合貞吉[6]らとともに尾崎伝記編纂委員会、尾崎事件真相究明会などでゾルゲ事件の調査を行う。この時期、秀実の弟として党内やマスコミからも注目された[7]。1949年に中部民報社が経営悪化し、党につながりのある印刷会社文光堂に就職、しかしほどなく解雇される。次の就職先を見つけるが、急性肋膜炎で倒れ、その後肺浸潤に進行し、生活保護で暮らしながら手記を執筆し始める。手記は1955年に脱稿し、1959年にゾルゲ事件をテーマとしたノンフィクション『生きているユダ』として出版。
評論活動

1954年、ゾルゲ事件で刑を受けた川合貞吉に、事件を素材にした長篇小説「民族の哀愁」を『面白倶楽部』に連載していた牧野吉晴に引き合わされて文学の道を勧められる。同1954年、牧野主催の第二次『文藝日本』に参加し、榊山潤とともに編集にも携わる。この頃魯迅に傾倒し、『文藝日本』で原稿に穴があいたときに、穴埋めに魯迅論を書いて掲載した。牧野の元で寺内大吉伊藤桂一と知り合う。

1959年から、伊藤桂一、童門冬二永井路子平岩弓枝ら、講談倶楽部賞関係の新人が集まった『小説会議』にも参加し、大衆文学評論を始める。

1960年からは寺内大吉の誘いで『近代説話』の同人として活躍。1961年には竹内好らによる岩波書店『文学』誌での「戦争下の文学」共同研究に参加し、旧植民地文学や大東亜文学者大会の研究をもとにして、1963年『近代文学の傷痕』を出版。

また、普通社社長の八重樫旱と知り合い、1961年からの「名作リバイバル全集」の企画に協力[8]。また、「日本の中の中国」を考える研究会「中国の会」を普通社主宰で立ち上げ、野原四郎竹内好橋川文三安藤彦太郎新島淳良今井清一らをメンバーとした[9]。「中国の会」は、雑誌『中国』を1963年から、普通社のシリーズ「中国新書」の挟み込み雑誌として刊行[10]。しかし、同1963年に普通社が倒産したため、雑誌『中国』は、「中国の会」編集で勁草書房から1964年から1967年まで刊行されたが、尾崎は途中から編集に関わらなくなった[11](さらに雑誌『中国』は、「中国の会」編集、徳間書店発行で、1967年から1974年まで刊行[11])。

1961年には武蔵野次郎、南北社の大竹延と、大衆文学、大衆文化の研究を目的とした大衆文学研究会を設立し、雑誌『大衆文学研究』を発行。尾崎、武蔵野、大竹以外に、石川弘義足立巻一村松剛が編集委員として参加。同誌には他に日沼倫太郎真鍋元之(大衆文学研究者)、山田宗睦多田道太郎らが執筆者として参加。

1962年には同人誌『宴』創刊に参加[12]。1967年、作家代表団の一員として中国各地を訪問[12]。以降も何度も訪中。

1968年の南北社倒産後は『大衆文学研究』は休刊[13]。1971年から1974年まで雑誌『大衆文学研究会報』を刊行[14]


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