尾崎 将司 Masashi OZAKI
基本情報
名前尾崎 将司
生年月日 (1947-01-24) 1947年1月24日(77歳)
身長181 cm (5 ft 11 in)
体重90 kg (198 lb)
出身地徳島県海部郡宍喰町(現・海陽町)
経歴
メジャー選手権最高成績
マスターズ8位タイ: 1973
PGA選手権47位タイ: 1994
全米オープン6位タイ: 1989
全英オープン10位タイ: 1979
成績
優勝回数JPGA優勝:94回
優勝回数:113回(世界プロツアー最多記録)
賞金王12回(国内プロツアー最多記録)
ベストスコア61
世界ランク最高位5位
賞金ランク最高位1位
世界ゴルフ殿堂殿堂表彰者
選出年2011年
選出部門国際投票
2022年5月25日現在
テンプレートを表示
尾崎 正司基本情報
国籍 日本
出身地徳島県海部郡宍喰町(後の海陽町)
生年月日 (1947-01-24) 1947年1月24日(77歳)
身長
体重181 cm
76 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手、外野手
プロ入り1965年
初出場1965年6月6日
最終出場1967年10月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
徳島県立海南高等学校
西鉄ライオンズ (1965 - 1967)
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。
尾崎 将司(おざき まさし、1947年1月24日 - )は、日本のプロゴルファー、元プロ野球選手。
本名およびプロ野球時代の登録名は尾崎 正司(読みは同じ)。徳島県海部郡宍喰町(現・海陽町)出身。 ジャンボ尾崎の別名でも知られ、公式ゴルフランキングでも“Masashi Jumbo Ozaki”と表記された[1]。通称「ジャンボ」。世界ランキングの自己最高位は1997年ブリヂストンオープン優勝後の5位である。 日本ゴルフツアー通算94勝[2]、賞金王12回、メジャー大会20勝(日本プロ6勝、日本マッチプレー1勝、フィランソロフィー1勝、日本オープン5勝、日本シリーズ7勝)は歴代最多記録。 通算優勝回数113回は世界プロツアー最多記録であり、2010年に世界ゴルフ殿堂入りした。 2013年に日本男子レギュラーツアー史上初のエージシュートを、年齢より4打低いスコアで成立させた[3]。 徳島県立海南高等学校では1964年、投手として春の選抜に出場し、決勝に進出した。尾道商のエース小川邦和に投げ勝ち、初出場初優勝を飾った。同年夏の地方予選では南四国大会準決勝で、有藤通世のいた高知高に延長12回で敗退している。 1965年、西鉄ライオンズに投手として入団した。1年目から一軍に上がり、9月には先発として起用されたが、同期で入団した池永正明の投球を見て「こんなピッチャーがいたんじゃ、俺なんかピッチャーで飯が食える訳が無い」と、1967年に外野手に転向する[4]。 二軍では4番打者として活躍し、一軍でも8試合に先発出場するが結果を残せず、1967年12月23日に中西太監督に退団を申し出た。期待選手が僅か3年で退団の意向を明らかにしたため、西鉄球団は越年で慰留したが、「池永に勝ちたいという気持ちが野球を辞める理由だった。野球では負けたけど、違う世界ではあいつを追い抜く。そんな気持ちだった」と尾崎は翻意せず退団し、野球選手からは引退した[5]。 プロゴルファー転向から約31年後の2001年に、OBによるリーグとして発足したプロ野球マスターズリーグの福岡ドンタクズに入団する。登録名は「尾崎 将司」[6]、背番号は22[6]。外野手として登録され[6]、2003年度(同年オフ - 2004年初旬)まで所属した[7]。出場は初年度のみで、3試合出場(打席数5)、打率.200(5打数1安打、1二塁打)の成績であった[6]。 年
経歴
野球
年度別投手成績
度球
団登
板先
発完
投完
封無
四
球勝
利敗
戦セ
h
ブホ
h
ル
ド勝
率打
者投
球
回被
安
打被
本
塁
打与
四
球敬
遠与
死
球奪
三
振暴
投ボ
h
ク失
点自
責
点防
御
率W
H
I
P
1965西鉄17300001----.00016039.0406800220022214.851.23
19663000000--------162.160100000414.503.00
通算:2年20300001----.00017641.1466900220026224.831.33
年度別打撃成績
Size:115 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef