尾崎 士郎(おざき しろう、1898年(明治31年)2月5日 - 1964年(昭和39年)2月19日)は、日本の小説家。新聞連載小説『人生劇場』がヒットし、流行作家になった[1]。
尾崎 士郎
『アサヒグラフ』 1955年10月19日号
誕生1898年2月5日
愛知県幡豆郡横須賀村(現・西尾市吉良町)
死没 (1964-02-19) 1964年2月19日(66歳没)
東京都大田区
墓地
川崎市の春秋苑西尾市の福泉寺 愛知県幡豆郡横須賀村(現・西尾市吉良町)生まれ。1910年(明治43年)、横須賀尋常高等小学校(現・西尾市立横須賀小学校)卒業[2]。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に進学[3]。2年進級時に数学と体操の点数不足で留年したため、6年間中学校に在籍した[4]。中学在籍中、雑誌『世界の日本』に論文「いかにして選挙権を拡張すべき乎」を寄稿。これが評者の早稲田大学教授・永井柳太郎の目にとまり、永井の薦めにより早稲田大学進学を志すようになった[4]。 早稲田大学政治科在学中に社会主義運動にかかわり[1]、大学を中退。大逆事件真相解明の目的で売文社に拠る。同社を本拠に活動していた高畠素之を追って国家社会主義に身を投じる。1921年(大正10年)に時事新報の懸賞小説で、大逆事件を取材した『獄中より』が第二席で入選し、以後本格的に小説家として身を立てるようになる。『人生劇場』(竹村書房、1935年)の扉絵『人生劇場 望郷篇 三州吉良港』(1954年)の撮影現場。愛知県幡豆郡横須賀村(現・西尾市)の「上横須賀駅」付近[5]。尾崎と出演者の宇野重吉。 1933年(昭和8年)から都新聞に『人生劇場』を連載開始、大ベストセラーとなり、文芸懇話会賞も受賞。以後20年以上執筆し続ける大長編となった。また戦前は、雑誌『文芸日本』、戦後に『風報』を主宰した。 早くに右傾し、日本文学報国会に参加して軍国主義鼓吹の小説や著作を多く書いたため、戦後公職追放となるが、以後は文壇から距離を置き、実業家などとのつきあいが多かった。川端康成とは関東大震災の翌年1923年(大正12年)に出会って以来からの変わらぬ親友であった[6][7][8]。 また『石田三成』『真田幸村』『篝火』などの歴史小説も書いたほか、相撲にも詳しく、長編小説『雷電』など相撲関係の著作もあり、横綱審議委員を務めた。酒豪でもあった。 1964年(昭和39年)2月19日、東京都大田区山王の自宅で、直腸癌により死去。66歳没。その直前に闘病記を遺した。戒名は文光院殿士山豪雄大居士(今東光の撰)[9]。文化功労者が追贈された。弔辞は川端康成が読み哀悼の意を表した[10]。 生地である幡豆郡横須賀村は、江戸時代から街道沿いに商家が連なる小さな村で、士郎の生家「辰巳屋」も煙草の製造や木綿の卸などで財を成した商家だった[11]。父の嘉三郎は明治20年に上横須賀郵便局長となり[12]、士郎が生まれた明治31年に自宅で三等郵便局を開業し、没後は長兄の重郎が郵便局長を引き継いでいたが、父の代からの公金横領を苦にして重郎がピストル自殺をし、尾ア家は借財返済のために1918年に家屋敷を手放して村を離れた[11]。士郎が大学在学中に起こったこの一件は、短編『三等郵便局』(1926年)のほか、代表作の『人生劇場 青春篇』をはじめ多数の作品に取り上げられ、士郎の作家人生に大きな影響を与えた[11]。次兄の昇は毎日新聞社出版局次長などを務めた出版人[13]。 尾崎が『獄中より』で第二席を取った時事新報の懸賞小説で、第一席だったのが宇野千代の『脂粉の顔』である。受賞の翌年、中央公論社で偶然会った2人は、宇野のひと目惚れによってその日から同棲を始めた。宇野は後年のインタビューで、「尾崎は人に非常に好かれる人で、尾崎自身もまた好かれたがる人だった。それが彼の人生を駄目にした」と語っている[14]。 川端康成を通じて伊豆湯ヶ島温泉で知り合った梶井基次郎とは、馬込文士村において、妻の宇野千代を巡って関係が険悪となり[6][7][15]、その後尾崎と千代は離婚となった[6][7][15]。夫婦の仲はすでにぎくしゃくしていたが、宇野に好意を寄せる梶井とそれを憎からず思う宇野との親しい関係に対してわだかまりを感じていた尾崎は、友人宅で開かれたパーティで偶然居合わせた梶井の態度が気に入らず、梶井の顔に火のついた煙草を叩きつけるという事件を起こしてしまったのである[16][17][18]。 宇野と別れたのち、カフェー・ライオンの17歳の女給古賀清子と知り合って1930年に結婚し、一枝という娘をもうけた[18][19]。尾崎一雄にも同年配の一枝という娘がおり、いずれも早稲田大学へ入ったためよく混同された。のち士郎の娘は中村汀女の息子と結婚、一雄の娘も結婚して古川と姓が変り、共著を出している[20]。相撲好きな尾崎らしく長男には「土俵の士」を意味する「俵士(ひょうじ)」と名付けた[19][21]。
職業小説家
最終学歴早稲田大学政治学科中退
代表作『人生劇場』(1933 - 59年)
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経歴
家族宇野千代