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尾山神社
拝殿
所在地石川県金沢市尾山町11-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度33分58.76秒 東経136度39分20.85秒 / 北緯36.5663222度 東経136.6557917度 / 36.5663222; 136.6557917 (尾山神社)
尾山神社(おやまじんじゃ)は、石川県金沢市にある神社。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。主祭神は加賀藩の藩祖前田利家と妻の芳春院(まつ)。旧社格は別格官幣社。神門は重要文化財に指定されている。例祭は利家の命日である4月27日。現在は神社本庁の別表神社である。
歴史尾山神社神門境内にある前田利家公像東神門
慶長4年(1599年)に前田利家が没すると、子の前田利長はその霊を祀ろうとしたが、公然と祀るには憚られるところがあった。そのため、越中国射水郡(現・富山県高岡市東海老坂)の式内社・物部八幡宮から八幡神を、越中国氷見郡(現・富山県氷見市阿尾)の榊葉神明宮から天照大神を勧請して金沢城の東に卯辰八幡社を建て、ここに利家を合祀した。だが、この神社も幕末になると藩の財政が乏しくなり荒廃が目立つようになった。
明治時代になって、1872年(明治5年)に教部省出仕加藤里路(元金沢藩の権大属・宣教掛で、のちに尾山神社の社司)と石川県参事桐山純孝が新たに藩祖を祀る神社を建てる計画をすると、旧藩士達が集まって前田土佐守家の前田直信が代表になり、1873年(明治6年)金沢城の金谷出丸にあった金谷御殿の跡地に新たに神社を建立することとなった。元の卯辰八幡社は1878年(明治11年)、宇多須神社となっている。
1873年(明治6年)3月に政府より神社創立許可が出て、同月14日に創建し、社号を尾山神社とした。同月30日に、1871年(明治4年)7月、卯辰山三社の一つである卯辰山天神社(卯辰神邪社、卯辰山天満宮)に一時的に遷座していた神像を尾山神社に遷座した。11月16日にはときの県令内田政風を始めとする官吏が参列して、卯辰八幡社より神霊遷座が行われた。当初、社格は郷社に列格され、翌年に県社に昇格する。この11月には前田家当主前田斉泰の子少教正・大聖寺藩知事前田利鬯(としか)が説教を行っている。
次々と境内施設が整えられていくなか、1875年(明治8年)11月に特徴的な神門が造立されることとなった。この神門は長谷川準也・大塚志良により計画され、長谷川家出入りの大工・津田吉之助(1827年 - 1890年)[1]によって建てられた[2]。1879年(明治12年)7月には前田利長・前田利常が相殿に祀られる。同年9月には歴代藩主を祀る境内摂社として金谷神社が創建された。
1874年(明治7年)3月に石川県中教院が設置された。同年5月1日には中教院神殿の祭神4柱(造化三神・天照大神)の鎮座式が前田利鬯を祭主として県令・県下神職僧侶参列の上で行われた。
1902年(明治35年)4月26日、長年の昇格請願運動が実り、米沢の上杉神社と同時に別格官幣社に昇格している。7月3日から5日には昇格慶賀祭が行なわれた。
本殿と拝殿は1873年(明治6年)に建てたものである[3]。
1998年(平成10年)には芳春院(まつ)が合祀されている。
祭神
主祭神 - 贈従一位権大納言菅原朝臣利家(前田利家)、芳春院(まつ)
相殿 - 贈正二位権大納言菅原朝臣利長(前田利長)、権中納言従三位菅原朝臣利常(前田利常)[4]
御利益‐商売繁盛、必勝、文武両道、夫婦円満、子宝安産、災難除け
境内
本殿 - 1873年(明治6年)建立。右側の玉垣は金沢で最初のレンガ造りの建築物である。
拝殿 - 1873年(明治6年)建立。中央の天井と欄間は旧金谷御殿のもの。
金谷神社 - 2代藩主前田利長から17代までの藩主、当主とその正室を祀る。
東神門
もともとは、金沢城二の丸御殿で使われていた唐門。二の丸御殿はたびたび火事にあっているが、その際この門は一度も燃えなかった。その理由としては、立派な龍の彫刻が施されており、この龍が水を吹いて火災を免れたという伝説がある(作者名は不明)。その後、金沢城は廃城となり、金沢城跡が陸軍の拠点となると、訓練などに支障が出るとして1870年(明治3年)卯辰山招魂社に移築された(なお、この後にも陸軍が二の丸御殿で火事を起こしている)。卯辰山招魂社移転後で戦後の1963年(昭和38年)に当社に移され、裏門として使用されている。
神苑
尾山神社が建設される前にこの地にあった金谷御殿の庭に手を加えて今に至る。別名は「楽器の庭」。琴をモチーフにした琴橋や琵琶をイメージした琵琶島など、おもに日本の雅楽で使われる楽器や楽器を演奏するための衣装などをモチーフにした橋や島から成り立つ。
利家公金鯰尾兜の碑 - 金色の鯰尾兜が立っている。
前田利家騎馬像
お松の方(芳春院)像
社務所
金渓閣 - 結婚式場でもある。囲碁のタイトル戦でも使われることがある。
榊葉神明宮 - 祭神:豊受大神[5]
少彦社 - 祭神:少彦命
稲荷社 - 祭神:宇迦魂命