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おやま れいじ
尾山 令仁
陸軍経理学校の士官候補生時代、1944年
生誕 (1927-01-15) 1927年1月15日
日本、東京都
死没 (2023-05-16) 2023年5月16日(96歳没)
別名唯人
出身校陸軍経理学校、早稲田大学、東京神学塾
職業牧師・説教者・神学者・聖書学者
配偶者尾山 美智子〈2018年に死別〉
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聖書キリスト教会
尾山 令仁(おやま れいじ、1927年1月15日 - 2023年5月16日[1])は、日本の牧師、神学者、聖書学者、神学校教師、神学博士。聖書キリスト教会元会長牧師[2][3][4]。日韓親善宣教協力会会長[5]、厚木聖書キリスト教会主任牧師。号は「唯人」。
陸軍経理学校、早稲田大学大学院博士課程修了。戦後、日本の福音派指導者として聖書信仰の確立のために働く。大学時代にキリスト者学生会を設立。日本プロテスタント聖書信仰同盟の3代目実行委員長として日本福音同盟の結成に関わる。第2回日本伝道会議京都宣言起草委員長。
長男の尾山謙仁は牧師。娘婿の岡野俊之は牧師。次男の尾山清仁は聖書キリスト教会会長牧師。孫の岡野義喜は牧師。 会社員の家庭に生まれた。父親は若い頃に洗礼を受けていたが、熱心なクリスチャンではなかった。3人兄弟で兄と妹がいた。同居していたクリスチャンの伯父は青年時代の尾山に影響を与えた。職業軍人となるため17歳で早稲田中学校から陸軍経理学校に入った。経理学校時代は陸軍全体の雰囲気からキリスト教に対して偏見を持っていた。空襲の激化によって陸軍経理学校は東京から石川県金沢市に疎開し、そこで敗戦を迎えた。敗戦の翌年、早稲田大学に入学した。英語を習うため教会のバイブル・クラスに行き、ここで教えていたヘンリー・イケモト軍曹(後に中佐[6]で退役)の誘いでGIゴスペル・アワーに出席した。 1946年11月30日の晩、GI・ゴスペル・アワー ある朝のディヴォーションの時、牧師として召された尾山は、在籍していた建築科から転学試験を受け、文学部の西洋史に移った。1949年に新しく開校した東京基督神学校に入学した。大学3年生であった尾山は大学と並行して神学校の授業を受けた。この神学校が二つに分かれたため、1951年に東京神学塾に移り、1953年、村瀬俊夫と共に神学校卒業後、聖書信仰の学問的地位向上のため、早稲田大学大学院に入学した。 尾山は宣教師団体や既存のキリスト教会で働く道を断り、自主独立の開拓伝道によることを決意した。当時、聖書信仰の教会は少なく、多くのプロテスタントで焼香など偶像崇拝が行われていた。また、外国の団体の資金援助に頼る教会も多かった。 1953年3月15日の日曜日から路傍伝道を始めた。その一年後の復活祭で洗礼を授けた7人が高田馬場教会(現聖書キリスト教会)の最初の受洗者である。尾山はこの洗礼を執行するため1954年3月12日に按手礼を受けた。 聖書信仰に立った教会形成をし、日本における聖書信仰の確立に尽くしてきた。1959年にプロテスタント百周年を祝う大会、日本宣教百年記念聖書信仰運動が開かれた。この年、リベラルなグループは福音派とは別に百周年記念を持っていた。プロテスタントは、リベラル派(エキュメニカル派)と聖書信仰派(福音派)の両陣営にわかれ、聖書信仰運動から日本プロテスタント聖書信仰同盟が生まれた。後に、日本プロテスタント聖書信仰同盟、日本福音連盟、日本福音宣教師団 1956年、ディヴォーションの時マタイによる福音書5章から、尾山は、日本帝国による植民地支配や第二次世界大戦における占領時の被害について、アジアの人々への謝罪が必要であることを示した。そしてフィリピンに行って半年の間、謝罪運動を行った。 1961年、台湾、東南アジア、インドネシア、シンガポールの謝罪運動に向かった。 1963年12月、大韓民国に謝罪に行った。1903年、朝鮮は近代化に遅れた国で、宣教や教育を通して先導、啓導すべきという認識が主流で、朝鮮総督府はキリスト教を積極的に利用した[9]。提岩里事件で日本によって焼き討ちされた教会を再建することで、償いのしるしをしめし、謝罪を表明すると決意した。1970年9月23日に献堂式が行われた。日本人の最初の伝道者乗松雅休を知る由もなし、知っていたら水原市(スウォンし、朝: ???)に行った。
生い立ち
クリスチャンとなって
ミニストリー
開拓伝道
聖書信仰
謝罪
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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