尾上柴舟
[Wikipedia|▼Menu]

尾上 柴舟
(おのえ さいしゅう)

誕生北郷 八郎
1876年8月20日
岡山県苫田郡津山町[注釈 1]
死没 (1957-01-13) 1957年1月13日(80歳没)
東京都文京区白山御殿町
墓地多磨霊園
職業歌人詩人書家国文学者
言語日本語
国籍 日本
教育博士文学
最終学歴東京帝国大学文科大学卒業
活動期間1901年 - 1957年
ジャンル短歌国文学
文学活動叙景詩運動
代表作『短歌滅亡私論』(1910年)[2]
子供尾上兼英(養嗣子)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

尾上 柴舟(おのえ さいしゅう/しばふね、1876年明治9年〉8月20日[3] - 1957年昭和32年)1月13日)は、日本詩人歌人書家国文学者文学博士[4]帝国芸術院会員[5]勲二等瑞宝章受章者。旧名は北郷八郎[6]
略歴・人物

岡山県苫田郡津山町(現・津山市)出身[3][注釈 2]。本名は尾上八郎[1]。元津山藩士・北郷直衛の三男として生まれ[3]、同藩士・尾上動の養子となった[3]。津山小学校高等科を卒業の後、父の転勤で兵庫県龍野(現・たつの市)に移住する。東京府尋常中学[3]一高を経て[3]東京帝国大学文科大学に進み[13]1901年に卒業[3][14]。哲学館(現・東洋大学)講師[15][16]東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)講師・教授(1905年[17][18]–)、高等官6等に叙せられて「第6臨時教員養成所」の教授を兼ねる(1906年[19][20][21][22]–1907年度[23])。早稲田大学高等師範部(現・早稲田大学教育学部)教授を経て[3]1908年から女子学習院(現・学習院女子大学)教授[3][23][24][注釈 3][26]。1943年に東京芸術大学に講師としておもむき[27]、1946年に東京女子高等師範学校の名誉教授[6]

1914年、東京大正博覧会で最高賞の銀牌を得る[28]1923年、『平安時代の草仮名の研究』[29][注釈 4]文学博士[30]1937年には書家として帝国芸術院会員[30]1946年に東京女子高等師範学校名誉教授、1949年歌会始選者に選ばれると、取りやめとなった1952年[31][32]を除き没年までつとめた[42]。日本学士院会員[40]

一高時代に落合直文に師事、1900年の歌会始に出席[43]。翌1901年に『ハイネの詩』を刊行[3][44][45]。また、金子薫園と共に『叙景詩』を刊行し[3]、『明星』の浪漫主義に対抗して自然主義文学の影響を受けた「叙景詩運動」を推し進めた[3]1910年に発表した「短歌滅亡私論」は大きな話題を呼び、口語短歌も含めた大正?昭和初期の短歌改革の前哨戦となった[2]1914年4月、石井直三郎、岩谷莫哀らとともに歌誌『水甕』(みずがめ)を創刊し、主宰者となる[46][47][注釈 5]

書道では大口鯛二に師事[28][30]。粘葉本『和漢朗詠集[26]を研究して古筆の書風を再現したほか[30][注釈 6]、漢字と仮名を調和させる調和体[注釈 7]を追及し、「昭和の藤原行成[30]」と称された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:77 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef