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出典検索?: "尼子誠久"
凡例尼子 誠久
伝・尼子誠久墓
時代戦国時代
生誕永正7年(1510年)?
死没天文23年11月1日(1554年11月25日)
別名名字:新宮氏・多賀氏
官位式部少輔(官途名)
幕府室町幕府
主君尼子晴久
氏族尼子氏
父母父:尼子国久
兄弟誠久、豊久、敬久、又四郎、与四郎、
尼子晴久正室、大河原貞尚室、宍道経慶室、数久(天粧寿心大和尚)
妻正室:多賀氏の娘
子氏久、吉久、季久、常久、勝久、通久
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尼子 誠久(あまご さねひさ/まさひさ/なりひさ)は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。 永正7年(1510年)、尼子国久の嫡男として生まれる。父同様に武勇に優れたと伝わっており、新宮党の一員として数多の武功を挙げ尼子氏の勢力拡大に貢献した。 叔父・塩冶興久が反乱を起こし敗死した後、興久側についた出雲国国人や諸勢力は祖父・尼子経久により追放処分・領地削減を受けた。その際に父・国久は塩冶氏の所領を受け継ぎ、誠久も出雲の有力国人多賀氏に婿入りし、西出雲を国久一族が支配することになる。そのため主家の尼子晴久の方針である尼子宗家による出雲直轄統治の障害となり、西出雲統治を国久の手腕に頼るという政治的矛盾を引き起こした。また、その武勇を笠に着て傍若無人な振る舞いもあり、他の尼子家重臣とも確執を生じた。その後は美作国方面の統治を重臣の牛尾幸清と共に担当している。 『陰徳太平記』『雲陽軍実記』といった軍記物では、誠久の傲慢な振る舞いを表す逸話が見られる。
生涯
人物・逸話
晴久の祐筆(秘書・書記)の末次讃岐守は鼻が大きかった、それを見た誠久は「お前は武名は高くないくせに、役に立たない鼻だけが高い」として暴行を加え、鼻を砕いた。
誠久は「館前、目の届く限り乗馬無用」(自分の目の届く範囲内では下馬せよ)という命令を下し、尼子領内の者たちが大変迷惑した。それに反発した熊谷新右衛門という武将が、牛の背に鞍を置いてまたがり、鷹狩りの最中の誠久の前を通り過ぎた。