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凡例尼子政久
時代戦国時代
生誕長享2年(1488年)
死没永正10年(1513年)または15年9月6日?[1]
改名又四郎[1](幼名)→政久
戒名不白院殿花屋常榮大居士[1]
墓所島根県松江市八雲町・常栄寺境内
官位民部少輔[1]
幕府室町幕府
主君尼子経久
氏族宇多源氏佐々木氏流尼子氏
父母父:尼子経久[1]、母:吉川経基娘
兄弟政久、国久[1]、塩冶興久[1]、いとう(北島氏室[1])、千家氏室[1]、宍道久慶室[1]、竹堂利賢大和尚
妻正室:山名兵庫頭または山名兵庫介娘[1]
側室:野村諸親妹
子松田誠保室[1]、又四郎(夭折)、晴久(詮久)[1]
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尼子 政久(あまご まさひさ)は、戦国時代の武将。尼子経久の嫡男。 父・経久は尼子氏の戦国大名としての基盤を整えた名将であるが、政久も父に劣らず智勇に優れた武将であった。また、笛などを嗜む教養人であり、時の後土御門天皇からもその文才を高く評価されている。経久が出雲統一を成し得たのは自身の優秀さだけではなく、嫡男の政久における才能によるところも大きい。名前の「政」の字は、父・経久同様に元主君京極政経より偏諱を受けたものである。 経久は将来を期待していた政久の死を悲しむと同時に、復讐として次男・国久に命じて磨石城を激しく攻めさせた。城兵は降伏すら許されず、宗的を初めとする全てが虐殺されたと言われている。また、経久は政久の系統が断絶することを惜しみ、政久の嫡男・晴久に家督を譲っている。 花実相の大将と賞賛された。
生涯
死後
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i j k l m n 今井尭 1984, p. 327.