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「曲尺(かねじゃく)」はこの項目へ転送されています。大工仕事で使われるへの字型の物差しについては「指矩(さしがね)」をご覧ください。

しゃく(かねじゃく・くじらじゃく)
尺(曲尺・鯨尺)
度量衡尺貫法
長さ
SI曲尺)約 303.030 mm、(鯨尺)約 378.788 mm、約 333.333 mm(中国)
定義(曲尺).mw-parser-output .sfrac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .sfrac.tion,.mw-parser-output .sfrac .tion{display:inline-block;vertical-align:-0.5em;font-size:85%;text-align:center}.mw-parser-output .sfrac .num,.mw-parser-output .sfrac .den{display:block;line-height:1em;margin:0 0.1em}.mw-parser-output .sfrac .den{border-top:1px solid}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}10/33 m[1]、(鯨尺)25/66 m[2]、1/3 m(中国)
由来手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さ
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尺(しゃく)は、尺貫法における長さ単位である。東アジアでひろく使用されている。ただし、その長さは時代や地域によって異なる。

人体の前腕にある尺骨は、かつて古代ローマでその部位が身体尺として使われた(キュービット)歴史から、古代中国の身体尺である「尺」を連想した大槻玄沢が、『重訂解体新書』で意訳したものである[3]

また、もともとは長さの単位であった尺が、転じて物の長さのことや物差しのことも「尺」と呼ぶようになった。
中国の尺

漢字の「尺」は「?」ないし「斥」の文字の形を簡略化したもので、この文字を長さを指す単語に当てるのは仮借による。『説文解字』など、長さを図る指のさまの象形文字と解釈されることがあるが、これは金文等の資料とは一致しない誤った分析である。[4]

身体尺は人によって長さが異なるので、後の時代に一定の長さを1尺とする公定尺を定めるようになった。しかし、公定尺は時代を下るにつれて長くなっていた。これは民間で使われる単位が長くなっていったため、時の政権もそれを追認する形で公定尺を改訂したものである。尺の長さを長くすることで尺を基準にして納める税(反物など)がより多くとれるからとする説もある。

尺という単位は古代中国の時代には既にあったとされている。『漢書』律暦志では音階の基本音(黄鐘)を出す音の笛に、粒が均一な秬黍(くろきび)90粒を並べ、その1粒分の長さを分(ぶ)と定義している。そして10分を1寸、10寸を1尺とする[5][6]。古代の1尺の長さは正確にはわからないが、出土文物からの推測では、戦国から秦にかけての1尺は23 cm前後であった。漢代でもあまり変わらず、23?24 cm程度であった。文献によると周の尺はその8割ほどの長さ(約20 cm)であった[7]

なお、漢書に記された尺の長さが当時の笛の秬黍に拠るという由来(黄鍾秬黍説または黄鍾管基準説)については、漢書の権威から後世に広く信じられるに至った。しかし、尺の長さと秬黍の長さの不整合から、黄鍾管基準説には後世に異論が出ている。朱載?や呉承洛、荻生徂徠らは、秬黍を尺の起源としていることについて「虚構的」や「漢儒の虚談」と断じている[8]小泉袈裟勝の指摘の原文箇所は正確には次の通りである。「しかしこうして復元される尺が、ほかの方法から考証されるものとも合わないということは、度量衡の考証学者を当惑させた。そこで中国の学者にも日本の学者にも、漢書律暦志の黄鍾管基準説はうそであるという人が多い。明代の考証家朱載?も、中国度量衡史の著者呉承洛も、これを虚構的といい、荻生徂徠も漢儒の虚談ときめつけ、狩谷?斎も実験まで試みて否定している。」[9][注 1]。江戸時代の学者の狩谷?斎は実験まで試みて、同じく否定し、秬黍を元にしたということはこじつけ(牽強の説)であろうとしている[注 2]

1尺の長さが長くなったのは南北朝時代の北朝においてである[10]代には、一般に使われる長い尺を大尺、旧来の短い尺を小尺として制定し、でもそれを継承した。大尺は小尺の1.2倍にあたる。唐の大尺は、日本の正倉院蔵の尺の長さの平均によって296 mm前後と推測されている。唐代以後は小尺は使われなくなった。

明・清には営造尺・量地尺・裁衣尺など、用途によってさまざまの種類の尺があった。康熙帝時代の1713年に営造尺の標準化が行われた。この営造尺は清朝滅亡後の1915年にメートル法との対応が1営造尺 = 32 cmと定義された。営造尺は1929年に廃止され、かわりに市制として 1尺 = 1/3 m(約333.3 mm)と定められた。これが中華人民共和国でも引き続き用いられている。したがって、現在の中国の1尺は日本の1尺1寸(ちょうど)にあたる。台湾では、日本式の尺を「台尺」と呼ぶことがある。

近代の中国ではメートルにも「尺」の字を宛てたため、市制の尺(市尺)と区別するために「公尺」という。
日本の尺

日本には唐制が導入され、大宝元年(701年)の大宝律令で大尺・小尺を制定している。ただし異説もあり、日本には大宝令以前に高句麗から渡来した大尺より2寸長い高麗尺が普及していたので、これが大宝令の大尺とされ、唐の大尺が小尺にされたともいう。この説では、後に現れる曲尺1尺2寸の呉服尺は高麗尺に基づくものであるとする。また、新井宏は寺院等の実測分析から高麗尺ではなく0.268 mの尺が使用されていたという古韓尺説をとなえている。なお岩田重雄は、隋代に小尺となる尺が朝鮮において5世紀中頃には26 cm代に伸張し、その後約150年変化しないとし、それを新井宏が古韓尺と呼んでいると説く。唐の大尺は現在の曲尺で9.78寸(296.3 mm)であり、それ以来ほとんど変化していないことになる。

律令制崩壊後は、全国一律の尺は維持されなくなり、各地で様々な尺が使われるようになった。竹尺として代表的なものが京都系[11]の「享保尺」であり、鉄尺の代表的なものが大坂系の「又四郎尺」である。享保尺は又四郎尺に対して0.347 %ほど長い[12]。享保尺と又四郎尺を平均したものが折衷尺である。

明治に入り、政府は折衷尺を公式の曲尺として採用し、メートルの33分の10の長さ(約303.030 mm)と定めた[13]。通常、単に「尺」と言えば曲尺の尺を指す。これに対して鯨尺(くじらじゃく)は、曲尺の1.25倍であり、約378.788 mm である。

1958年制定の計量法尺貫法は計量単位としては廃止され、1966年4月1日からは商取引など(取引又は証明)における使用が禁止された。ただし、木造建築和裁の分野での利用の便に資するため、尺・寸に変わるものとして、1/33 m(寸相当)や 1/26.4 m(鯨尺尺相当)の目盛り[14]を付した「尺相当目盛り付き長さ計」(尺に当たる、メートル法による目盛りが付された物差し)が認められている。詳細は、尺相当目盛り付き長さ計を参照のこと。

なお、日本で販売されるコンパネ石膏ボードなどの規格は『定尺』と呼ばれ、かつての尺を基準とした寸法に由来している。例えば、寸法が 910 mm × 1820 mm の部材は3尺(約909.1 mm)× 6尺(約1818.2 mm)に近く、また、1220 mm × 2440 mm の部材は4尺(約1212.1 mm)× 8尺(約2424.2 mm)の寸法に近い。このことから、これら部材は現在でも、職人の間ではそれぞれ「サブロク」、「シハチ」などと言い慣らわされている。
鯨尺

曲尺とは別に、用途別の尺も使われた。主に和裁に使われた鯨尺(くじらじゃく)・呉服尺などである。ただし北海道では呉服でも曲尺が慣習的に使われている場合もある。

鯨尺は1尺が曲尺の1.25尺にあたり、曲尺の1尺は鯨尺の8寸にあたることになる。

明治政府は、曲尺と鯨尺のみを計量単位として認め、呉服尺などその他の尺を廃止した。明治24年(1891年)の度量衡法は、鯨尺は布帛(すなわち繊維製品)を計量するときに限り用いることができると規定し、鯨尺を曲尺の1.25倍と定義している。また、鯨尺1丈(鯨尺の10倍)、鯨尺1寸(鯨尺の1/10)、鯨尺1分(鯨尺の1/100)をも定義した[15]

鯨尺(法令上は、「鯨尺尺」と言う。鯨尺の尺の意である。)は上記の度量衡法により、25/66メートル(約378.788 mm)と定められた[1]

鯨尺・呉服尺の起源については、今のところはっきりとは分からない。鯨尺は大宝律令以前から使われていた高麗尺(こまじゃく)に由来するとする説があるが、室町時代に作られたものだという説もある。高麗尺は現在の曲尺で1.1736尺であり、鯨尺よりむしろ呉服尺の起源であるとする説もある。

江戸時代初期の小噺に、奈良の大仏と土佐の鯨とが、どちらが大きいかで言い争いとなり、最後に「金(曲尺)より鯨(鯨尺)の方が二寸長い」というオチになるというものがある。[16]なお、「鯨尺」という名称は、仕立てに使う物差しをしなやかな鯨のひげで作ったことによる。
折衷尺に至る経緯
享保尺(竹尺)

曲尺で最も由緒正しいものであるという。しかし、この名は江戸時代のどの度量衡学者の著述にもあらわれてこない。初めて出てくるのは明治3年(1870年頃)である。その後に、この享保尺は古尺の正統を受け継いだものということに変わった。その説明によると、紀州の熊野神社に天平の古尺があった。将軍吉宗がこれを写し取らせて曲尺の正器と定め、司天台の測影用に用いたという[17]。この尺は紅葉山宝庫(紅葉山文庫)にあって火災で焼失したが、書籍奉行(書物奉行)の近藤重蔵(諱は守重(もりしげ)、号は正斎)が模造していて、これを内田五観が持っていたので、大蔵省はこれを根拠にしたという[18]


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