尹奉吉
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尹 奉吉
事件の3日前に撮られた写真
生誕 (1908-06-21) 1908年6月21日
大韓帝国 忠清南道礼山郡
死没 (1932-12-19) 1932年12月19日(24歳没)
大日本帝国 石川県金沢市
別名梅軒
罪名殺人罪、殺人未遂、傷害罪爆発物取締罰則違反の併合罪[1]
刑罰死刑(銃殺刑)
配偶者「用順
子供2児
親戚尹柱卿(孫娘)

有罪判決1932年5月25日

尹奉吉
各種表記
ハングル:???
漢字:尹奉吉
発音:ユン・ポンギル
日本語読み:

いん ほうきちいん ほうきつ
ローマ字:Yoon Bong-gil
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三義士の一人として韓国で顕彰される尹奉吉の墓(左から李奉昌、尹奉吉、白貞基。孝昌公園韓国語)

尹 奉吉(日本語読み;いん ほうきち又はいん ほうきつ[2]朝鮮語読み;ユン・ポンギル、1908年6月21日 - 1932年12月19日)は、朝鮮独立運動家。号は梅軒。

上海天長節爆弾事件の実行犯[3][4][5]。要人2名を含む多数に重軽傷を負わせるテロを起こしたが、自爆には失敗してその場で逮捕され、上海派遣軍軍法会議の死刑判決後に内地で執行された[5]

国民の力所属の第21代国会議員尹柱卿は長孫娘[6]
概要

忠清南道礼山に生まれた。本貫は坡平尹氏[7]1931年上海に渡って金九の組織した抗日武装組織韓人愛国党に参加し、事件を準備した。

第一次上海事変停戦交渉の最中であった1932年4月29日天長節天皇誕生日)の日、上海の日本人街の虹口公園で行われた祝賀式典会場に入り込んだ尹奉吉は、要人群の席に向かって手榴弾を投擲。爆発で多数を死傷させる事件を引き起こした。

上海派遣軍司令官陸軍大将白川義則と上海日本人居留民団行政委員長で医師の河端貞次が死亡。第三艦隊司令長官海軍中将野村吉三郎第9師団長陸軍中将植田謙吉、上海駐在総領事村井倉松、上海駐在公使重光葵、上海日本人居留民団書記友野盛ら多数が重傷を負った。後の1945年9月、東京湾ミズーリ艦上で行われた降伏式典で降伏文書に署名した外相(当時)重光葵が杖をついているのはこの事件で片足を失ったためである[8]

尹奉吉は現場で日本の関係者に取り押さえられた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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