尖閣諸島問題
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尖閣諸島問題(せんかくしょとうもんだい、簡体字中国語: ?????、繁体字中国語: 釣魚臺列嶼主權問題)とは、日本沖縄県石垣市登野城尖閣として実効支配する尖閣諸島に対し、1970年代から中華人民共和国中国[1][2]中華民国台湾)が領有権を主張している問題のことである[3]。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}尖閣諸島のうち3島の位置。
青:魚釣島、黄:久場島、赤:大正島。魚釣島国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。左から尖閣諸島の魚釣島、北小島南小島(空撮)。東シナ海ガス田の位置(赤点)と日中中間線。日本名:春暁は「白樺」、断橋は「楠」、冷泉は「桔梗」、天外天は「樫」、龍井は「翌檜(あすなろ)」
歴史でたどる領土問題の経緯

以下では原則として「尖閣諸島」の呼称に統一して表記する。尖閣諸島の領有権を巡る争点についての詳細は争点を参照
沖縄県編入までの経緯

尖閣諸島は琉球王国から中国大陸への航路上にあり、その存在は古くから琉球王国で知られていた。また、沖縄の人々、特に海人(ウミンチュ)と称される沖縄の漁民は、この島々を沖縄の言葉で、「ユクンクバジマ」あるいは「イーグンクバジマ」と呼んできた[4]。「ユクン」は魚の群れているところ、「イーグン」は魚を突く銛(もり)のことであり、「クバ」は、この島々に繁茂している樹木を指している[4]。沖縄では、ほとんどすべての人たちが、この島々は、沖縄と一体のものと考えており、自らの生死に直接かかわる「生活圏」と考えている[5]。もとより、生活圏といった場合、単に経済的意味だけではなく、歴史的文化的意味を含むのは当然である[5]1819年には、公務中の琉球王族が魚釣島に上陸して飲水を調査している[6]

これらの島々が「中国固有の領土である」と最初に主張した日本の学者はマルクス主義歴史家の井上清であり、それは、1972年刊の『尖閣諸島 釣魚諸島の史的解明』(現代評論社)によってなされた[4]。井上の主張は明代の『冊封琉球使録』等古文書の記述をもとにしたもので、中国側でも頻繁に援用されているが、その主張や根拠となる古文書理解等については、数多くの批判が寄せられている[4]。ことに彼は、独自の歴史的主体である琉球・沖縄の存在をきわめて軽視している[4]。たとえば、井上は 「琉球人のこの列島に関する知識は、まず中国人を介してしか得られなかった。彼らが独自にこの列島に関して記述できる条件もほとんどなかった」 と記しているが、これに対し、『冊封琉球使録』を完訳した原田禹雄は、明代には冊封使の船の10倍以上の進貢船那覇福州の間を往復しており、初めて琉球に赴く冊封使は、尖閣諸島の知識を琉球の船員から得ていたことを指摘し、中国語通訳を兼ねた琉球の針路案内人は中国の使臣とのあいだでは共通語として中国語を用いたのであるから、標識島の呼称が中国風になったのはきわめて当然であるとして、井上の見解を否定している[4]

沖縄・琉球は、1879年の廃琉置県(琉球処分沖縄県設置)まで、幕藩体制下の異国として薩摩藩の支配下に置かれながら、同時に清国との冊封関係にある独自の二重朝貢国としての歴史を歩んできた[5]。そのなかに尖閣諸島を含んでおり、当然のことながら、琉球処分後に日本国内で発行される地図には尖閣諸島は琉球諸島の一部として記載されたのである[注釈 1]大日本帝国陸地測量部(現・国土地理院)作成「吐?喇及尖閣群島地図」(1930年測図・1933年発行)

沖縄県が、かつて冊封使の航路の目標島であったこれらの無人島に日本領であることを告げる国標を建てようと、明治政府に伺いを立てたのは、大東諸島などが無主地先占の法理によって日本領となった1885年のことであった[5]。同年8月、内務卿山県有朋は沖縄県に対して、魚釣島、大正島、久場島の三島への調査を命じた。沖縄県令の西村捨三は部下の石澤兵吾に現地住人からの聞き取り調査を行わせ、9月21日に石澤が現地住人から受け取った報告書では、「『中山伝信録』の赤尾嶼(せきびしょ)は久米赤島、黄尾嶼(こうびしょ)は久場島、釣魚台(ちょうぎょだい)は魚釣島に相当すへき」と記された[7]。石澤からの報告を受けた西村は翌日の9月22日に山県有朋に「既に清國も旧中山王[注釈 2]を冊封する使船の詳悉せるのみならず、夫々名称をも附し、琉球航海の目標と為せし事明らかなり。依て今回大東島同様、踏査直に國標取建候も如何と懸念仕候間」と国標建設に懸念を表明したが[8]、10月9日、山県有朋は外務卿井上馨に「清国所属の証跡は少しも相見え申さず」と書簡を送り意見を求めた。

10月21日、井上外務卿は山県内務卿に、清国がその存在を知り清国の新聞が台湾附近の島に注意を促している時期に公然と国標を建てるのは政治的に好ましくないと回答した[注釈 3]。すなわち、沖縄県の伺いは、外務卿井上馨の「清国にいらざる疑念を抱かせてはならない」という判断によって却下されたわけである[5]。9月22日付「大阪朝日新聞」によれば、「清国新聞」とは英人の英字紙「上海マーキュリー」であり、台湾附近の島は八重山諸島を指す[9]。10月30日午前8時に石澤ら一行は魚釣島西岸に上陸し午後2時に離陸、計6時間の現地調査を行い、調査の中で石澤は魚釣島に漂着した中国式小船(伝馬船)の遺物を確認している[注釈 4]。魚釣島を後にした一行は久場島を目指すが上陸できず[注釈 5]、久米赤島でも上陸調査は出来なかった[注釈 6]

こうした国家間の駆け引きや思惑をよそに、石垣島宮古島沖縄本島南端の糸満などの漁民の周辺海域での漁業活動は活発化してゆき、最初にこの周辺海域を漁場として開拓・活用したのは、沖縄のウミンチュ(漁民)であった[5]

また、1884年福岡県八女市出身の実業家、古賀辰四郎は人を使って尖閣諸島を探検させている[11]。古賀はもともと八女茶を商う寄留商人で、茶の販路拡大のため沖縄に赴き、そこで知った夜光貝に着目し、貝殻を集めて神戸居留地に運び、高級ボタン用として輸出するなどの事業をおこなっていたが、尖閣諸島のことを知ると人を送り込んで島の探検を始めたのである[11]。そして、この島々が無人島であり、どの国の影響下にもないことを確認したのであった[11]。尖閣諸島での事業を将来有望とみた古賀は、政府が国有地としたうえで自分に貸与してほしい、島の開発を推し進めたいと日本政府に申請した[11]


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