尖塔
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この項目では、建築物・建造物における塔について説明しています。その他の用法については「塔 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「タワー」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「タワー (曖昧さ回避)」をご覧ください。
東京都に存在する世界で一番高い"塔"、東京スカイツリー「塔」の起源であるサーンチーストゥーパ

塔(とう)は、接地面積に比較して著しく高い構造物のことである。
定義と語源

日本語の「塔」は、もともと仏教の構造物である仏塔を意味していたが、現代では様々な比較的高い構造物(塔状構造物)に対しても使用されており、建築基準法によって厳密な定義はされていない。
「塔」の語源

日本語の「塔」の語源はサンスクリット(梵語)の ????? (st?pa、ストゥーパ、意味: heap、…を積み上げる、蓄積する)に求められる。この語は古代インドにおいて、饅頭型に盛り上げた土ののことをも指すようになっていたが、仏教には今日で言うところの「卒塔婆」の意味で採り入れられた。st?pa は中国で「?堵坡(古代中国語の発音 [*su?dta??p?a?l])」と音写漢訳され、やがて「?(卒)」が脱落して「堵坡(塔婆)」に変化したと考えられている。ただし、「堵坡(塔婆)」はサンスクリット st?pa のパーリ語形である t?pa (トゥーパ)が音写漢訳されたものとの説もある[1]。「塔」は、そのいずれかの形からさらに省略され、1文字で表されるようになったものである(現代中国語の発音は「ター、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: t?」)。

日本では古神道における神奈備(かみなび)や磐座信仰(いわくらしんこう)が石塚信仰となり、仏塔と結びつき供養塔となった。墓の場合もあるが、祈念や祈願として「そこに宿る命」が荒ぶる神にならぬように、慰霊や鎮魂として祀ったものであり、五重塔などを模したものも多いが、ただの石版の場合もある。また祀られるものも食料として捕獲した魚や鯨であったり、包丁や人形などの器物(道具など)のものもあり、森羅万象に命が宿るとする神道の観念に基づくものとなっている。

日本における「塔」は、江戸時代までは、仏教寺の構造物のみを指す言葉として使用されていた。したがって、江戸時代前後の高層建造物、例えば、吉野ヶ里遺跡で再現される古代の(やぐら)や中世の城郭建築に見られる天守を一般に「塔」と呼ぶことはない[注釈 1]が、形式では塔のように建てられたものを層塔型と言うことがある。

しかし、明治以降に入ってきた西洋建築物の構成していた構造物の tower の対訳語として「塔」が使われるようになる。電波送信の高いアンテナや送電のための構造物も「塔」の字があてられるようになった。したがって、現在の「塔」の用法に厳密な定義が存在するわけではない。

なお、塔の助数詞は「基」であるが、これも仏塔由来と考えられる。また、助数詞として「層」なども使われることがある。
tower の語源

英語 tower ([?ta?.?(?)]、タウア[注釈 2]〈慣用的な日本語表記:タワー〉)は、ドイツ語の Turm (トゥルム)やフランス語の tour (トゥール)、イタリア語 torre (トッレ)などと同様、ラテン語 turrem (トゥルレム)< turris (トゥルリス、意味: high structure、palatium、arx、高層建造物、(古代ローマの七つの丘の)大宮殿、城塞)に由来する[2]。それはさらに古く、古代ギリシア人エトルリア人を指して呼ぶところの Τυρρ?νιοι (Turr?noi、: Tyrrhenians、テュレニア人)という言葉に起源を見ることができる。また、漢字の「塔」と同様にサンスクリット語の st?pa との関連性が指摘されることもあるが、定かではない。
古代の塔
オリエント文明チョガー・ザンビール遺跡のジッグラト(紀元前2000年頃か)エドフ神殿のパイロン
紀元前2世紀頃の造営か)

古来から人類は高いものへの憧憬や畏敬の念を抱いてきた[3]。古代から中世にかけての塔状構造物にはメソポタミアジッグラト古代エジプトピラミッドオベリスク、さらに中世の教会堂の鐘楼などがあるが、これらはいずれも石や煉瓦を塊状に積み上げた塊状構造である[3]

塔の歴史は監視塔や宗教塔から始まったといわれている[3]
イェリコの監視塔

確認できる世界最古の塔は死海の北方約9kmに位置する古代都市イェリコにあった監視塔である[3]。イェリコは紀元前8000年頃の世界最古の集落とされており、約4haの面積に人口約2000人が生活していたとされている[4]。イェリコは年間を通じて温暖で豊富な湧水から食料資源も豊かであったため、周辺の平原や山岳地帯に暮らす未開民族の標的にされていた[4]。そのためイェリコでは住居群の周囲を石造りの防御壁で囲み、防御壁の内側には監視塔がたてられていた[4]。集落跡には現在でも直径10mほどの円塔が9mの高さまで残存しているが、この監視塔(望楼)がどのくらいの高さであったかは分かっていないものの明らかに監視目的で建てられたものであった[4]
ジッグラト

イェリコの防御壁や監視塔はシュメール文明のジッグラトに引き継がれた[4]。この地は年間降水量が少なく、農業用水をチグリス川とユーフラテス川に依存していたが増水の時期や水量が不規則で常に氾濫の危険にさらされていた[4]。また、地形も開放的であったため、周辺の山岳民族や遊牧民族に侵入される危険性も高かった[4]。このような環境から周辺環境の変化を把握するための大型の監視塔(情報塔)が作られた[4]

初期のシュメールのジッグラトは洪水を見張るための監視塔として建設されたが、のちに史上最古の宗教塔へと変容した[5]。紀元前4000年から3400年頃になるとシュメール文明では労働の分化や階層の分化が生じ、煉瓦の大神殿が築かれるようになった[5]。シュメールの各都市国家では、それぞれの守護神のもとに神権政治が行われていたが、主神殿は次第に高い位置に建立された[5]。人工的な丘に設けた層状の基壇上に神殿が設けられ、このような丘は人工の聖なる丘「ジッグラト」と呼ばれるようになった[5]

高塔建築の原型の一つとして著名なものに紀元前2100年頃の「ウルの第三王朝のジグラット」がある[5]。ウルの第三王朝のジグラットは3層の基壇からなり、最上層に月の神ナンナルの拝殿が建てられていた[5]。各層の表面は焼成煉瓦、内部は土と日干し煉瓦で築かれ、テラスには樹木が植栽されていた[6]

さらに紀元前562年には新バビロニア王国のネブカドネザル王がジグラットを再建したが、その淵源はウルのジグラットにあるといわれている[6]。旧約聖書の『創世記』には、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせようとする野望の実現と、それに対して主の与えた罰の寓話である、バベルの塔が登場する。このバベルの塔のモデルはネブカドネザル王のジグラットであるとする説がある[6]
古代エジプトのパイロン

古代エジプトでは、神殿の門が2つの塔に挟まれたかたちをとっていた。この形式をパイロン(塔門)と呼ぶが、現在でもルクソール神殿エドフ神殿など主な神殿遺跡でそれらを確認することができる。

また、古代ギリシア人が「オベリスク」と呼び、後世、ヨーロッパ社会でモニュメントとして転用されることともなる、四角錘の記念塔が神殿の入り口などに設置された。

これは太陽神信仰と関係し、聖なる石「ベンベン」が発展したものとも考えられている。
地中海文明風の塔(アテネ, BC1世紀)
古代ギリシア


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