凡例少弐 資能
時代鎌倉時代前期 - 中期
生誕建久9年(1198年)
死没弘安4年閏7月13日(1281年8月28日)
改名資能→覚恵(法号)
別名武藤資能
官位大宰少弐
幕府鎌倉幕府
主君藤原頼経→頼嗣→宗尊親王→惟康親王
氏族少弐氏
父母父:武藤資頼
兄弟資能、武藤頼茂
少弐 資能(しょうに すけよし)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将・御家人。少弐氏2代当主。 当時武藤氏は大宰府の責任者として大宰少弐の地位にあったため、資能の代から少弐姓を名乗るようになったという。 資能は北九州に大きな勢力を持ち、幕府の鎮西奉行として、文永5年(1268年)、元の使者の対応にも当たっている[2]。文永の役直前に出家して覚恵と号し家督を長男の経資に譲ったが、老齢の身でありながら自身も九州の総司令官として参戦し、元軍の侵攻を阻止し撃退することに成功する。 弘安4年(1281年)の弘安の役にも老齢の身を押して出陣した。壱岐島の戦いでは元軍を相手に奮戦し、壱岐島から元軍を駆逐した[3]。しかし、この時の負傷がもとでまもなく死去したという。享年84。大応国師南浦紹明[4]は、導師として太宰府横岳崇福寺において葬儀を執り行った。 なお、仁治3年(1242年)に、円爾(聖一国師)が博多に承天寺[5]を開く際に、資能は寺地数万坪を寄進した。 太宰府市の観世音寺の北にある観世音寺四十九子院跡[6]のひとつといわれる安養寺の跡地の一角には、武藤資頼墓と伝えられる五輪塔と少弐資能の供養塔(宝篋印塔)が並んで建っている。
略歴
脚注^ 『尊卑分脈』第2篇・391頁。
^ 『史料綜覧』第5編之905 144頁
^ 『史料綜覧』第5編之905 258頁
^ 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年(p.68)
^ 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年(p.12)の解釈によると、父の武藤資頼の生前の約束であったのか、没後14年を経ているにもかかわらず、承天寺の喜捨(捨地壇越)は父資頼として、その名をたたえているのである。
^ [https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/d-map/kaisetu26.html
出典
『尊卑分脈』
『亀山天皇紀』
『後宇多天皇紀』
渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年
表
話
編
歴
少弐氏当主
資頼
資能
経資
盛経
貞経
頼尚
直資
冬資
頼澄
貞頼
満貞
資嗣
嘉頼
教頼
政資
資元
冬尚 | 断絶