少年兵
[Wikipedia|▼Menu]
三国同盟戦争に投入された少年兵士千日戦争の赤い子供兵(1899年

少年兵(しょうねんへい、: Child soldier)あるいは少女兵 (しょうじょへい)は、18歳未満の子供兵隊のこと。特に、陣地を守らせたり、プロパガンダを提供するために、軍事活動に強制動員する場合を指す。

時に、子供の生け贄と言われることがあるが、宗教的な子供の生け贄とは同質のものではない。子供兵士、子供兵、子ども兵の呼称も同様に用いられる。

戦争武力紛争に兵隊として子供たちが使われていることに対し、社会の関心を引き出すために、毎年2月12日に、レッド・ハンド・デーが開催されている。レッド・ハンド・デーは、国連総会で採択された武力紛争における児童の関与に関する児童の権利に関する条約の選択議定書 (Optional Protocol to the Convention on the Rights of the Child on the involvement of children in armed conflicts) が2002年2月12日に発効される日に開始された。

日本は2004年(平成16年)8月に武力紛争における児童の関与に関する児童の権利に関する条約の批准書を寄託し、同年9月から効力を発している[1]
概要

歴史的に有名な少年兵に少年十字軍オスマン帝国イェニチェリ戊辰戦争白虎隊二本松少年隊等の事例、近代では三国同盟戦争第二次世界大戦における第12SS装甲師団ヒトラーユーゲント”を代表とする各国の少年志願兵などがある。ただし第二次世界大戦までの少年兵はあくまで正規の軍人としての地位と待遇を受け、また軍事教育を受けた上で国民軍の一員として正規戦争を戦っていた。

そもそも、古代から近代までは、現在とは「少年」の定義が異なっている。源平合戦戦国時代の乱世では15歳くらいで「成人」扱いされ、初陣を飾ることは珍しくなく、戊辰戦争の時代は特定の藩だけでなく、他の藩も元服後の侍は大人として扱われ武家の教育がされていた。

現代において国際的問題となっているのは、冷戦崩壊後の第三世界における民族紛争において、主に反政府組織によって子供が意に反して、奴隷のように兵士として使われ過酷な待遇を受ける状況である。

反政府組織の例としては、ダイヤモンドの権益を巡るシエラレオネリベリアでの紛争におけるリベリア国民愛国戦線革命統一戦線スリランカタミル・イーラム解放のトラネパール内戦におけるネパール共産党毛沢東主義派コロンビア内戦におけるコロンビア革命軍等が挙げられる。
歴史

歴史を通じ多くの文化の中、子供は広く軍事行動の一端を担っていた。そのようなことが、文化的倫理に反する時でも、同じように行われた。

戦争に関与する子供について、もっとも古い記録は、古代遺産から見ることができる。地中海沿岸の低地では、若い者が大人の戦士の助手、二輪戦車操縦士、または鎧持ちとして仕えることが慣習となっていた。

聖書の中にも、同じような例が見られる(ダビデによるサウル王への従事)。また、ヒッタイト古代エジプトの芸術、古代ギリシャ神話ヘラクレスヒラス (Hylas) の物語)、哲学や文学などにも見ることができる。

古代に遡る慣習を見ても、子供たちは手荷物の一部という名目の元で、軍人の他の家族と一緒に従軍させられるのが常であった。このため子供たちは後衛戦による危害に晒されることとなり、アジャンクールの戦いなどにおいてはイギリス軍の従者や子供たちがフランス軍による大量虐殺の憂き目にあった。

ローマ帝国においても若者が戦場に駆り出されたが、子供を戦争に利用するのは賢明でなく、残酷なことであるとは理解されており、プルタークは若者が従軍するにあたっては最低でも16歳でなければならないものとする規定があったととれる記述を残している。

中世ヨーロッパでは、およそ12歳ほどの少年が軍人の側近(従者)として使われていたが、実際の戦闘において彼らの果たしうる役割は理論的に見ても限られたものであった。1212年のいわゆる少年十字軍は、神の加護によって彼らが敵を征服するであろうという前提の下に、何千という少年たちを訓練されていない兵士として採用し編成されたものである。しかし、これらの子供たちのうち実際に戦闘に参加したものはなく、伝承によれば彼らは奴隷として売られたとのことである。多くの学者は少年十字軍なるものが子供たちだけで、あるいは子供たちを中心として編成されたとは考えていないが、しかし少年十字軍は家族の全員が戦争行為に一役買っていた時代を例証するものではある。

近代初頭の戦闘には少年たちがしばしば参加している。彼らの目立った役割の一つは、どこにでもいる(軍楽隊の)ドラマーである。映画『ワーテルロー』(ワーテルローの戦いに基づく)には、会戦の火蓋を切るナポレオンを煽動するフランスの少年ドラマーが描かれているが、連合軍の兵士によってあっさりと撃ち倒されている。大航海時代には少年が大英帝国海軍の軍船の乗組員となり、船の弾薬庫から砲兵のところまで弾薬や砲弾を運ぶなどの重要な任務を担っていた。これらの少年は「火薬運搬手」 (powder monkeys) と呼ばれていた。第二次ボーア戦争におけるマフェキングの籠城戦の際には、ロバート・ベーデン=パウエルが12歳から15歳の少年を入隊させて斥候として訓練し、それによって数の限られた成人の兵士を実際の戦闘へ効率よく配備することができた。この少年たちの働きの良さが、ベーデン=パウエルによるボーイスカウト(当初は軍事的な路線に沿っていた若者の組織)の設立を間接的に導いた。

1827年にロシア皇帝ニコライ1世によって発令された法律により、過剰な数のユダヤ人少年が従軍させられるために強制徴用され、軍事訓練機関へ送られた。この少年兵はカントニスト (Cantonist) という名で知られている。25年にわたる徴兵期間は公式には18歳からはじまるものとされていたが、厳格な人数割り当て制度を果たすために8歳ほどの年少者までが連れて来られるのが普通であった。
三国同盟戦争
第二次世界大戦沖縄戦で捕虜となった少年兵

第二次世界大戦において、日本では、大日本帝国陸軍が、沖縄戦において現地の14歳?17歳の少年を「鉄血勤皇隊」や「少年護郷隊」として防衛召集している。鉄血勤皇隊は、旧制中学生ら1780人によって編成され、沖縄戦での戦闘に動員されて、約半数が戦死した(17歳未満の戦死者は567名)。なかには戦車への斬り込み攻撃によって爆死した者もいる。沖縄における17歳未満の少年兵の防衛召集は、法律によらず陸軍省令を法的根拠としており、その法的手続きにも多くの問題が指摘されている(詳細は「鉄血勤皇隊」を参照)。さらに日本政府は、本土決戦が迫る1945年6月に戦時緊急措置法とともに「義勇兵役法」を制定し、15歳以上の男子、17歳以上の女子に対して義勇兵役の「臣民の義務」を課すこととし、日本全国で男女の少年兵を召集して戦闘に参加させることを可能とした。なお義勇兵役法には「朕ハ曠古(こうこ)ノ難局ニ際会シ忠良ナル臣民ガ勇奮挺身皇土ヲ防衛シテ国威ヲ発揚セムトスルヲ嘉シ」と異例ともいえる上諭がつけられた。1944年ワルシャワ蜂起中の、ポーランドのボーイスカウトによる地下組織スザーレ・スゼレジ (Szare Szeregi) の兵士

ヨーロッパでは社会主義シオニスト青年運動のハッショーメール・ハッツァーイール (Hashomer Hatzair) の多くのメンバーは、1943年ワルシャワ・ゲットーにおける反乱で戦闘に参加した。

その他のナチス統治下にあったヨーロッパの反ファシズム  (Anti-fascism) レジスタンス運動は、部分的に少年によって構成されていた。1944年に行われていたフランスのレジスタンス運動では、6歳の少年がメッセンジャーボーイとして活動している最中、味方からの攻撃に巻き込まれて死亡。死後、1950年に軍曹に昇格している[2]

一方、正規軍でもソビエト赤軍国民革命軍でも、戦争中に少年兵を起用している。ドイツ軍でも、ヒトラーユーゲントは、ナチスドイツの正式な組織として、少年を、肉体的に訓練し、ナチスのイデオロギーに染め上げていた。第二次世界大戦の終わりまで、ヒトラーユーゲントのメンバーが軍隊に入隊する年齢は、時間を追うごとに下がっていき、1945年ベルリンの戦いでは、ドイツ軍の主力の一つとなっていた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:60 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef