少女小説
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少女小説(しょうじょしょうせつ)とは、少女読者対象として想定して書かれた小説作品のこと[1][2]児童文学の1ジャンルともされ[1]、英米文学の領域においては家庭小説と呼ばれることが多い[2]少女趣味の小説。日本において少女向けの雑誌・レーベルより発表された作品を指すことが多い。

同義語として、少女文学、少女文芸などがある。近年の日本の少女小説はライトノベルの一分野ととらえることもでき[3]、少女向けライトノベルと呼ぶことがある[4][注釈 1]
少女小説の歴史
明治

1902年明治35年)、日本初の少女向け雑誌『少女界』が創刊された[6][7]。以降、1906年(明治39年)に『少女世界[6][8]1908年(明治41年)に『少女の友[9][7]1912年(明治45年)に『少女画報[7]1923年(大正12年)に『少女倶楽部[7]と、明治・大正にかけて多くの少女向けの雑誌が創刊され、必然的にそれらの雑誌に少女向けの小説が掲載されることとなった。これが、少女小説の誕生である。
大正・昭和初期

大正時代に入ると少女向けの雑誌は隆盛を迎える[10][7]。なかでも吉屋信子の小説と中原淳一の挿絵は少女たちから絶大な支持を獲得した[11]。吉屋が1916年(大正5年)から『少女画報』に連載した「花物語」は、花をモチーフに少女たちの友愛を描き、7話完結の予定が8年間続くほどの人気を誇った作品である[12][13][14]。本作は川端康成中里恒子との共同執筆)の「乙女の港」など「エス」作品の原型となり、その影響は現代にまで及んでいる。

昭和に入ると、ベストセラーとなるほどの売れ行きを上げる少女小説が現れる。横山美智子の「嵐の小夜曲(セレナーデ)」(昭和4年から5年、『少女の友』で連載)は実に54版もの重版を重ね、「講談社のビルはこの本のおかげで建った」といわれるほどの大ヒットとなった。

このような人気作品が生まれたことにより、少女小説というジャンルが確立されたといえよう[15][16]。しかし少女小説に対する文学的な評価は低く、少女趣味に偏った小説、女子どもの読み物、といった見方が強かった[15]。そのため、吉屋は少女小説の第一人者とされたにもかかわらず、1980年ごろにフェミニズムの観点から再評価されるまでは、少女小説家としての一面は軽視され、第二次世界大戦後の歴史小説などがもっぱら評価されていた。川端康成や与謝野晶子吉川英治といった大家も少女小説を執筆しており、また挿絵も川端龍子竹久夢二などの有名画家が手掛けていたことも事実であるが、彼らの少女小説での仕事に言及されることは少なく、日本近現代文学史の中の少女小説の位置づけは、いまだ定まっていない。
第二次世界大戦前

1938年(昭和13年)に「児童読物純化評定」が発表されると、少女向けの雑誌も戦時の出版統制を受けるようになった[17][18]。誌面は軍事色を増し、それまでの少女趣味の読み物、挿絵は掲載されないようになる[19]。よって少女小説の発表も途絶えることとなった[17]
戦前少女小説の特徴
家族関係

当初は産んでくれた親に対する「孝」(忠孝の孝)が重視され、絶対服従が美談として賞賛された[6]。父・兄は登場しない。大正に入ると婦人問題の高まりから少女の自我を描く悲惨な境遇の主人公が登場する小説が流行した。自身を愛さない親に対しては孝の義務はないが、愛してくれる親には(学校のために家を出るか出ないかなどの)孝と立身出世の対立が描かれた。1930年代に入ると孝はほとんど描かれず、父親も含めて家族から愛される少女が自己主張し芸術家として立身出世する物語が現れる。もっとも少年の場合こうした扱いは19世紀末から受けていたが。ところが戦時中になると少女に生まれた自主性が戦争に利用され、国家貢献をする少女が描かれるようになった[20]
第二次世界大戦後

第二次世界大戦が終わると、新しく少女向けの雑誌が創刊され、また戦前から発行されていた少女向けの雑誌が自由な誌面作りを許されるようになった[21][22]。しかし戦後の少女向け雑誌は総合雑誌として内容が多面化し、小説のほか、芸能記事、おしゃれについての読み物、漫画などが掲載され[23][24]、戦前の少女向け雑誌に比べ少女小説の掲載は減少してしまう。
昭和後期

1960年代終わり(昭和40年代中)の前ごろから少女漫画の人気にともない[25]、少女総合雑誌は少女漫画誌に姿を変え、多くの少女漫画雑誌が出版された。そして少女漫画ブームが訪れる。少女小説が掲載されるのは『女学生の友』などのみとなっていった。

そこに1966年(昭和41年)、集英社がジュニア向けの小説誌『小説ジュニア』を創刊した[26][27]。『小説ジュニア』は戦前の少女小説とは一線を画す10代の性や愛をテーマのひとつとした「ジュニア小説」[25][28]をあつかい、このジャンルの小説誌の中心的存在となった[29]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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