『少女の友』(しょうじょのとも)は、実業之日本社が発行していた少女向け雑誌。1908年(明治41年)創刊、1955年(昭和30年)に休刊[1]。題字は当時20代だった北大路魯山人が揮毫した。竹久夢二「姉と妹」、『少女の友』大正12年11月号口絵(絵葉書)。関東大震災を題材とする。 掲載された小説でとりわけ人気の高かったのは吉屋信子と川端康成だった。川端康成の『乙女の港』(1937年(昭和12年)6月号 - 1938年(昭和13年)3月号)は中原淳一の挿絵の魅力とあいまって一大ブームを巻き起こした。中原淳一は『女学生服装帖』というファッション・ページを担当(1937年(昭和12年)5月号 - 1940年(昭和15年)5月号)。少女の友の中心画家だったが、1940年(昭和15年)、軍部の圧力により雑誌への執筆を禁じられた。……大きな眼と、長い手足をもった甘い美しい少女の絵だった。ところが、それらの絵は、戦時下の軍国日本にふさわしくない、頽廃的で不健康なものだというので、軍部の圧迫で消えることになった。(中略)私たち女学生はがっかりして、古本屋に出廻った何年も昔の古雑誌の『少女の友』を買い漁ったものである。中原淳一の表紙の『少女の友』をみつけると、それが何年前のものであろうと、タカラモノを発見したように買うのであった。私たちは、遅く生まれすぎたと思った。 ? 田辺聖子、日本児童文学大系6 少女の友は『少女画報』と同様、宝塚、外国映画スターなどをふんだんに取り上げ、また投稿作品や投書を大量に紹介し投書欄では独特の「キミ・ボク言葉」が使われるなどモダン文化に好意的であった。そのため地方の女学校では少女の友への投稿が不良扱いされることがあった。その盛んな投稿欄では読者同士のコミュニティーが生まれた。創刊時から存在したが1930年代からは雑誌を飛び出し、愛読者大会までが開かれた。1938年の大会には400人が集まったと言う[2]。 2009年(平成21年)に版元の実業之日本社より『『少女の友』創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション』が発売されるや、2ヶ月で6刷・3万5000部を売り上げた。
概説
文学作品
川端康成 - 『乙女の港』(1937年(昭和12年)6月号 - 1938年(昭和13年)3月号)、『花日記』(1938年(昭和13年)4月号 - 1939年(昭和14年)3月号)、『美しい旅
吉屋信子 - 『紅雀』(1930年(昭和5年))、『わすれな草』(1932年(昭和7年)4月号 - 12月号、挿絵・高畠華宵)、『街の子だち