小野篁
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例小野 篁
小野篁像(『集古十種』より)
時代平安時代初期
生誕延暦21年(802年
死没仁寿2年12月22日853年2月3日
別名野相公、野宰相、野狂
官位従三位参議左大弁
主君嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族小野氏
父母父:小野岑守
兄弟篁、千株藤原敏行
藤原三守
子俊生、良真、葛絃、忠範、保衡[1]、利任
特記
事項一説には小野小町小野道風の祖父
テンプレートを表示
小野篁(『前賢故実』より)

小野 篁(おの の たかむら)は、平安時代初期の公卿文人参議小野岑守の長男。官位従三位、参議。異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。小倉百人一首では.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}参議篁(さんぎたかむら)。
経歴

弘仁6年(815年)に陸奥守に任ぜられた父・岑守に従って陸奥国へ赴き弓馬をよくした。しかし、帰京後も学問に取り組まなかったことから、漢詩に優れ侍読を務めるほどであった岑守の子であるのになぜ弓馬の士になってしまったのか、と嵯峨天皇に嘆かれた。これを聞いた篁は恥じて悔い改めて学問を志し、弘仁13年(822年文章生試に及第した[2]

淳和朝初頭の天長元年(824年巡察弾正に任ぜられた後、弾正少忠・大内記蔵人を経て、天長9年(832年従五位下大宰少弐に叙任される。この間の天長7年(830年)に父・岑守が没した際は、哀悼や謹慎生活が度を過ぎて、身体容貌が酷く衰えてしまうほどであったという[2]。天長10年(833年)に仁明天皇が即位すると、皇太子恒貞親王東宮学士に任ぜられ、弾正少弼を兼ねる。また、同年完成した『令義解』の編纂にも参画して、その序文を執筆している。

承和元年(834年遣唐副使に任ぜられる。承和2年(835年)従五位上、承和3年(836年正五位下と俄に昇叙されたのち、承和3年と翌承和4年(837年)の2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗する。承和5年(838年)三度目の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、常嗣の上奏により、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船した。これに対して篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法が罷り通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議し、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否した(遣唐使は篁を残して6月に渡海)[2]。のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま『西道謡』という遣唐使の事業を(ひいては朝廷を)風刺する漢詩を作るが、その内容は本来忌むべき表現を興に任せて多用したものであった[3]。そのため、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で隠岐国への流罪に処した[3]。なお、配流の道中に篁が制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという[2]

承和7年(840年)赦免により帰京し、翌承和8年(841年)には文才に優れていることを理由として特別に本位(正五位下)に復され[4]刑部少輔に任ぜられる。承和9年(842年承和の変により道康親王(のち文徳天皇)が皇太子に立てられるとその東宮学士に任ぜられ、まもなく式部少輔も兼ねた。その後は、承和12年(845年従四位下蔵人頭、承和13年(846年権左中弁次いで左中弁と要職を歴任する。権左中弁の官職にあった承和13年(846年)に当時審議中であった善ト訴訟事件において、告発された弁官らは私曲を犯していなくても、本来は弁官の権限外の裁判を行った以上、公務ではなく私罪である、との右少弁・伴善男の主張に同意し、告発された弁官らを弾劾する流れを作った。しかし、後年篁はこの時の判断は誤りであったとして、悔いたという[5]。承和14年(847年)参議に任ぜられて公卿に列す。のち、議政官として、弾正大弼・左大弁・班山城田使長官勘解由使長官などを兼帯し、嘉祥2年(849年)に従四位上に叙せられるが、同年5月に病気により官職を辞す。

嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い正四位下に叙せられる。仁寿2年(852年)一旦病が癒えて左大弁に復帰するが、まもなく再び病を得て参朝が困難となった[2]。天皇は篁を深く憐れみ、何度も使者を遣わせて病気の原因を調べさせ、治療の足しとするために金銭や食料を与えたという[2]。同年12月には在宅のまま従三位に叙せられるが、間もなく薨去[2]。享年51。最終官位は参議左大弁従三位。
人物『孝子の月』(月岡芳年『月百姿』)両親のために薪を集める小野篁

令義解』の編纂にも深く関与するなど明法道に明るく、政務能力に優れていた。また、漢詩文では白居易と対比されるなど、平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』にその作品が伝わっている。『野相公集』(5巻)があり、鎌倉時代までは伝わったというが、現在は散逸。一方で和歌にも秀で、『古今和歌集』(8首)以下の勅撰和歌集に14首が入集している[6]歌集として『小野篁集』があるが、内容は物語的で篁以外の手による和歌も含まれており、『篁物語』とも呼ばれる。

書においても当時天下無双で、の巧みさは王羲之王献之父子に匹敵するとされ、後世に書を習うものは皆手本としたという[2]

非常な母親孝行である一方、金銭には淡白で俸禄を友人に分け与えていたため、家は貧しかったという。危篤の際に子息らに対して、もし自分が死んでも決して他人に知らせずにすぐに葬儀を行うように、と命じたとされる[2]

身長六尺二寸(約188cm)の巨漢でもあった[2]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}なお、当時(平安時代)の男性の平均身長は159.5~163.5cmほどであった[要出典]。
代表歌参議篁(小野篁)(百人一首より)珍皇寺、小野篁卿旧跡、篁の亡霊が珍皇寺門前の六道の辻からに冥府に通ったという伝説がある、京都市東山区小野篁が地獄と行き来したと言われている井戸、奥の左側、珍皇寺

わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟(『百人一首』11番)

泣く涙雨と降らなむわたり川水まさりなばかへりくるがに(『古今和歌集』)

逸話と伝説

篁は昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において
閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説が『江談抄』、『今昔物語集』、『元亨釈書』といった平安時代末期から鎌倉時代にかけての説話集に紹介され[7]、これらを典拠にして後世の『本朝列仙伝』(田中玄順・編、1867年・刊)など多くの書籍で冥官小野篁が紹介されている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:58 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef