小野神社
拝殿
所在地東京都多摩市一ノ宮1丁目18-8[1]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分10.81秒 東経139度26分32.18秒 / 北緯35.6530028度 東経139.4422722度 / 35.6530028; 139.4422722
小野神社(おのじんじゃ)は、東京都多摩市にある神社。式内社論社、武蔵国一宮を称する。旧社格は郷社。 『延喜式神名帳』に記載されている式内社「武蔵国多磨郡 小野神社」の論社の1つ。論社には他に府中市の小野神社がある。多摩川の氾濫にともない遷座を繰り返した結果2社になったとも、どちらかが本社でもう一方は分祠であるともいわれる。また、当社は武蔵国の一宮とされた。 社殿、鳥居、隋神門、賽銭箱、神輿などには菊花紋章(十六菊の紋章)が取り付けられている。後北条氏、太田道灌らの崇敬を受けて栄えた。江戸時代には一宮大明神と称され、江戸幕府より朱印地15石を寄進されている[3][1]。 1880年に神奈川県から、1873年(明治6年)12月にさかのぼって、郷社に列格することとなった[4]。 主祭神は以下の8柱。 古くは小野氏祖の天押帯日子命を祀っていたという説がある[5]。 中世には近在に武蔵国府が存在し、武蔵国一宮であった。武州六大明神[注 1]の一つとされ、これらを祀る武蔵国総社の大國魂神社(六所宮)には「一宮」として祀られている。 「小野社」の名が初めて見られる史料として宝亀3年(772年)に作成された太政官符があげられ、「多磨郡□野社(多磨郡小野社を指すと思われる)」の記述がある[注 2][6]。 『日本三代実録』では元慶8年(884年)7月15日、従五位上から正五位上に昇格との記載がある。また、10世紀前半に成立した『延喜式神名帳』では小社として式内社に列している。 『吾妻鏡』の治承5年(1181年)4月の記事に『是以武藏國多西郡内吉富并一宮蓮光寺等』とあり「蓮光寺」(多摩市連光寺付近)と共に「一宮」(多摩市一ノ宮付近)の名が記述されており、「一宮」と「蓮光寺」を含めた形で「吉富」(京王線百草園駅 - 中河原駅の一帯)と記述している。 このほか、南北朝期の『神道集』には、小野神社が一宮として記載されている。 東京都指定有形文化財(彫刻) 指定名称:木像随身倚像 - 昭和50年2月6日に2躯指定。1974年(昭和49年)に、古い方の随身倚像挿首内に「元応元年十月二十九日、奉公人権津師丞源」の銘が、もう一方の随身倚像像内に「寛永五戊辰年三月二十五日相州鎌倉仏師大弍宗慶法印作之」の銘が見つかる。 鎌倉時代末期の元応元年(1319年)制作の随身倚像は、総高74.5cm。因幡法橋応円の作で権律師丞源により奉納された。その後、1628年(寛永5年)に鎌倉仏師大弐宗慶により彩色などの修復が行われる。その際、もう1躯が新調される。新調された1躯は総高52.3cm。どちらも檜材で制作され、胡粉地に彩色が施され、頭部は挿首、玉眼の寄木造りの木像[7]。(小野神社所蔵、非公開 )
概要
祭神
天下春命
瀬織津比当ス
伊弉諾尊
素盞嗚尊
大己貴大神
瓊々杵尊
彦火火出見尊
倉稲魂命
式内社「小野神社」の歴史
境内
本殿
拝殿
随神門
縁結びに御利益があるハート石
摂末社
伊勢神宮内宮 - 祭神:天照皇大神
伊勢神宮外宮 - 祭神:豊受大神
三嶋神宮 - 祭神:事代主命
八坂神社 - 祭神:須佐之男命
愛宕神社 - 祭神:軻遇突智命
安津神社 - 祭神:日本足彦國押人命
日代神社 - 祭神:大足彦忍代別命
鹿島神社 - 祭神:武甕槌命
子安神社 - 祭神:木花開耶姫命
厳島神社 - 祭神:市杵嶋姫命
方便神社 - 祭神:鹽土老翁命
堰宮神社 - 祭神:水分神
秋葉神社
稲荷神社
文化財
年中行事
元旦祭 : 1月1日
節分祭 : 2月節分
初午祭 : 2月初午
祈念祭 : 2月第2日曜日
末社祭 : 4月第1日曜日
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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