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やノートページでの議論にご協力ください。小野 忠明(おの ただあき、永禄12年(1569年)(永禄8年(1565年)とも)- 寛永5年11月7日(1628年12月2日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、剣豪、旗本。徳川将軍家指南役。前名は『寛政呈譜』では神子上 典膳(みこがみ てんぜん、『寛永系図』では御子神)で、後に母方の小野姓を名乗った。子に忠常。吉明ともいう。 小野氏は、清和源氏義光流。先祖は大和の豪族・十市氏の後裔で、安房国朝夷郡丸山郷神子上の郷士で里見氏の家来。曽祖父の神子上大藏は里見十人衆頭600石。祖父の神子上庄藏は100石で天文3年(1535年)の犬掛合戦で木曽新吾と相打ちで死亡(『房総里見軍記』『里見九代記』)。父は神子上重(神子上土佐)。母は小野氏。 安房国(現千葉県南房総市)に生まれる。はじめ里見義康に仕え天正17年(1589年)11月、里見家の家来として万喜城攻撃に参加。正木時堯(正木大膳)と一騎討ちをしたが決しなかったと『 里見代々記
経歴
一刀斎の元には既に 善鬼(姓不詳。小野姓とするのは俗説)という兄弟子がいたが、やがて一刀斎の命で後継者の座をかけた決闘を行い、総州の相馬郡小金原でこれを倒した[1]。決闘の後、一刀斎は自身の差料瓶割刀を授けて姿を消し、以後の消息は不明という。その後は一度故郷に戻ったのちに江戸に移り、駿河台あるいは本郷に居住したという(『武芸小伝』)。文禄2年(1593年)江戸近郊の膝折村で人を殺して民家に立てこもった剣術者を倒したことで徳川家康に認められ、200石[2]の禄高を給されて旗本となる[3]。徳川家では徳川秀忠付となって剣術を指南した。このとき姓を神子上から改め、母方の旧姓である小野とした。またのちに秀忠が二代将軍に就任したことで、一刀流は柳生新陰流と並ぶ将軍家指南役として大いに栄えた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従って上田城攻防戦で活躍し、上田七本槍と称されたが、この時軍令違反で処罰され、身は真田信之預かりとなり、上野国吾妻で蟄居を命じられている。その後、結城秀康の周旋で罪を許され、下総国埴生郡の本領に加え、上総国内に加増を受け、都合600石となった。その後一刀流の秘事を秀忠に伝授した褒美として、備前勝光の脇差、御料の羽織、黄金等を恩寵され、さらに秀忠から一字を賜り忠明と改名した(『寛政重修諸家譜』)。