小野岡 義音(おのおか よしね、天明5年(1785年)-弘化2年(1845年))は江戸時代の久保田藩家老。佐竹氏一族小野岡氏本家当主。通称は大和。号は松翁。父は小野岡義年(大和)。夫人は渋江敦光(六郎)の娘。実子は佐藤源右衛門信久の夫人。養子は実弟である小野岡義般
(市太夫)。家格は引渡一番座[注釈 1]。石高は1,402石余。享和3年(1803年)に相手番に就任し、同年中に藩主佐竹義和の命で家老に就任する。在職期間は享和3年11月26日(1804年1月8日)から文政2年10月21日(1819年12月8日)までであったが、天保4年10月6日(1833年11月17日)に再び家老職に就いた[1]。
文化12年7月8日(1815年8月12日)に藩主の義和が死去するが、後継について、義和の実子である佐竹義厚が当時3歳と幼少であるために支藩久保田新田藩(のちの岩崎藩)から後嗣を迎えることを主張するが、同じく家老で義厚の相続を主張する疋田定綱(斎)に押し切られる。
天保12年7月9日(1841年)に家老職を辞任し、同年9月に末弟の義般(市太夫)に家督を譲り隠居する。国学者平田篤胤とは懇意の間柄であった[2]。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 小野岡家は、佐竹義人四男小野義森