小野友五郎
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小野友五郎(1867年、アメリカにて)

小野 友五郎(おの ともごろう、文化14年10月23日1817年12月1日) - 明治31年(1898年10月29日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本数学者海軍軍人・財務官僚は広胖(ひろとき、しばしばこうはんとも音読される)。官位内膳正。元常陸笠間藩士、後に幕臣和算家としては広胖、洋算家としては友五郎と呼ばれることが多い。
目次

1 生涯

1.1 算学修業と幕府出仕

1.2 海軍修業と初めての渡米

1.3 小笠原測量と軍艦建造

1.4 昇進・再渡米

1.5 幕末の政局

1.6 教育・製塩技法改良への情熱


2 伝記・参考文献

3 小野友五郎を題材とした作品

4 関連項目

5 外部リンク

生涯
算学修業と幕府出仕 『量地図説』。1852嘉永5)年刊。国立科学博物館の展示。

文化14年(1817年)、笠間藩士小守宗次の三男として生まれる(母は飯田登和)。同藩の小野柳五郎の養子となり、家督を継ぐ。同藩の算学者甲斐駒蔵に入門し、和算を学んだ。江戸詰めとなった際に長谷川弘に入門してさらに算学を修める。弘化4年(1847年上総郷士・赤井庄五郎の娘・津多と結婚。

嘉永5年(1852年)、師の甲斐と共に『量地図説』を著す。同年に江戸幕府天文方出仕となり、勤務の傍ら江川英龍砲術軍学オランダ語を学んだ。オランダ航海術書を翻訳し『渡海新編』4巻として幕府に提出した。
海軍修業と初めての渡米 小野友五郎が航海長・艦長として乗り込んだ咸臨丸と伝えられる図

安政2年(1855年)8月、測量・航海術および蘭語への精通を買われ、老中阿部正弘からの直命により、長崎に設置された幕府の海軍伝習所に入学した。測量術の実践を16箇月の間学び修了後、江戸へ戻り築地軍艦操練所教授方となる。

万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節派遣が決定されたが、その護衛および航海訓練として軍艦奉行木村芥舟提督とする咸臨丸も派遣されることになった。小野も同僚で海軍伝習所の同窓生であった艦長勝麟太郎(海舟)を補佐する測量方兼運用方(航海長)となって、アメリカへ航海する。同乗した米国海軍の測量士官ジョン・ブルック大尉は小野の測量術の練達ぶりに感心し、以後親交を結ぶようになった。
小笠原測量と軍艦建造

帰国後、軍艦奉行木村により航海中における小野の功績が報告され、14代将軍徳川家茂に謁見および褒賞を賜った(なお、艦長であった勝は謁見を許されていない)。これに伴い、物頭格五人扶持の待遇を受ける。小野は海軍充実の必要性を感じ、軍艦奉行に対し、国産蒸気船の建造を具申する。万延2年(1861年、同年文久に改元)正月、小型蒸気軍艦の建造が許可され、主任に任命された。 小野友五郎が建造した千代田形

同年7月、軍艦頭取となり、正式に幕臣となる。異国船防備のため江戸湾測量を行う。またジョン万次郎小笠原諸島の領有・捕鯨基地化を提案し、アメリカやイギリスが同島の領有権を主張し始めたこともあり、同島嶼の精密な調査が必要となっていた。そのため、外国奉行水野忠徳を長とする調査団が小笠原諸島に派遣されること事となり、咸臨丸がその任に就いた。これに関して小野が咸臨丸艦長に任ぜられ、同諸島の測量を行った。この測量が、小笠原諸島の日本領有の大きな手がかりとなる。

翌文久2年(1862年)には上記の蒸気軍艦建造の計画が進められ、幕府で初めてとなる国産蒸気軍艦千代田形の建造を指揮(同船は量産化を計画されていたが結局一号船のみに終わったため、そのまま「千代田形」の船名で呼ばれた)。
昇進・再渡米

元治元年(1864年)6月には勘定吟味役に昇進。


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