小野伸二
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小野新二」、「小野真次」、あるいは「小野信次」とは別人です。

小野 伸二

ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC時代
名前
愛称シンジ、センセイ
カタカナオノ シンジ
ラテン文字ONO Shinji
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1979-09-27) 1979年9月27日(44歳)
出身地静岡県沼津市
身長175cm
体重74kg
選手情報
ポジションMFCMDM[1][2]
利き足両足
ユース
1986-1991今沢サッカースポーツ少年団(沼津市立今沢小学校
1992-1994沼津市立今沢中学校
1995-1997静岡市立清水商業高等学校
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1998-2001 浦和レッズ 79 (20)
2001-2005 フェイエノールト 112 (19)
2006-2007 浦和レッズ 53 (8)
2008-2009 VfLボーフム 29 (0)
2010-2012 清水エスパルス 70 (8)
2012-2014 ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC 47 (9)
2014-2019 コンサドーレ札幌
→北海道コンサドーレ札幌
62 (2)
2019-2020 FC琉球 23 (0)
2021-2023 北海道コンサドーレ札幌 6 (0)
通算481 (66)
代表歴2
1995 日本 U-173 (0)
1999 日本 U-206 (2)
2004 日本 U-233 (2)
1998-2008[3] 日本56 (6)
1. 国内リーグ戦に限る。2023年12月5日現在。
2. 2008年8月20日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

小野 伸二(おの しんじ、1979年9月27日 - )は、静岡県沼津市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー[2]。元日本代表

FIFAワールドユース準優勝、FIFAコンフェデレーションズカップ2001準優勝、日韓ワールドカップGL1位通過、UEFAカップ優勝、アジア年間最優秀選手賞を受賞。FIFA世界大会、UEFAクラブ国際大会のすべてに出場した唯一の日本人選手。
来歴
プロ入り前

小学生時代から「天才」と呼ばれ地元の沼津では名前を知られていた。10人兄弟の内で6番目の子で[4]、貧しい母子家庭で育ち、小学生時代はサッカー少年団にも入っていなかったが、小野が一人でサッカーをしているのを見た少年団の監督から「お金(月会費等)はいらないからぜひ入ってくれ」と勧誘された。その後、12歳でナショナルトレーニングセンター(ナショナルトレセン)に参加。既にこの頃、同世代で突出したサッカーセンスを持ち、同トレセンに参加していた稲本潤一は「ごっつい(すごい)奴が居る」と小野のプレーセンスに舌を巻いていた。1992年1月(1991年度)に開催された「バーモントカップ第1回全日本少年フットサル大会」(現在のJFAバーモントカップ 全日本U-12フットサル選手権大会)では沼津FCの一員として参加、決勝で木暮賢一郎のいる読売サッカークラブジュニアユースに敗れたものの、準優勝、かつ本人も優秀選手に選ばれた[5][6]。これが小野にとって初めての全国大会出場で、サッカー関係者の間では彼の才能が広く知られるようになった。

地元の公立中学校に進学した後、1993年に13歳でU-16日本代表に初選出され、以降も各年代の代表チームの中心選手として活躍した。1994年には第6回U-16アジアユース選手権で優勝し、1995年にはFIFA U-17世界選手権大会に出場している。

高校では沼津と同じ静岡県内の清水商業高校に入学し、同級生には平川忠亮池端陽介などがいた。1年後輩には池田学がいる。チームの中心としてプレーしていたが全国高等学校サッカー選手権大会には静岡県予選で敗退し本大会出場を一度も果たせなかった。高校3年時1997年の全日本ユース選手権では準優勝、インターハイベスト16、他校の選手と合同チームを組んだ国民体育大会では静岡県選抜・少年男子の部で2年連続となる優勝をはたした。卒業に際してはJリーグの13クラブからオファーを受け、浦和レッズに加入し、背番号は28を与えられた。
浦和レッズ

1998年にはアジアユース選手権で準優勝し、自身もMVPを獲得した。韓国とのワールドカップ共催記念試合で岡田武史監督に抜擢され、18歳でフル代表初出場を果たした。その後フランスW杯の日本代表に選出され、第3戦のジャマイカ戦で途中交代から15分間出場した。この試合ではファーストタッチで相手選手を股抜きでかわすなど好プレーを連発した。18歳と272日でのワールドカップ出場は日本代表史上最年少[7] であり、今日まで破られていない。

浦和ではデビュー2戦目の横浜フリューゲルス戦でプロ初得点を挙げた。このシーズンは合計9得点を挙げ新人王Jリーグベストイレブンを受賞した。

1999年は浦和での背番号を8に変更した。ナイジェリアで開催されたFIFAワールドユースでは、決勝のスペイン戦は累積警告で出場停止となったものの、キャプテンとして準優勝に貢献し、ベストイレブンにも選出された。7月5日に行われたシドニーオリンピックのアジア地区一次予選、対フィリピン戦において、相手ディフェンスに後方からのタックルを受け、左膝靭帯断裂の重傷を負った。この怪我により長期離脱を余儀なくされ、リーグ戦の半分以上を欠場した。リハビリを経て復帰したが、この怪我に由来する慢性的な痛みや故障の頻発を抱えるようになり、日本代表に定着できない時期が続いた[8]。浦和も成績が低迷し、J2に降格した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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