小里氏
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小里氏

本姓清和源氏土岐氏[1]
家祖尾里国定[1]
種別武家
出身地美濃国土岐郡尾里邑[1]
凡例 / Category:日本の氏族

小里氏(おりし)は、日本氏族の一つ。土岐氏の庶流[1]
目次

1 概要

2 歴代当主

3 脚注

4 参考文献

概要

小里氏は土岐元頼ないしその子の頼連から始まったとされる[2]。『尊卑分脈』では「浅野土岐太郎国衡─又太郎国村─又太郎国氏─国定(号尾里太郎)」と記して、国貞からはじまったとする[1]。明応5年(1496年)の船田合戦により元頼が自刃すると、越前国朝倉氏の元に逃れ、その後援を得て土岐恵那両郡の旧領・約3,600石余を回復し、天文3年(1534年)、頼連の子・小里光忠は、小里城を築城した。

小里光忠は甲斐の武田信玄に従った後、織田信長にも内通したが、元亀元(1570年)12月に武田信玄が東美濃の遠山氏の領地を通って、徳川氏の本拠地三河国へ侵入しようとして勃発した上村合戦の際に武田重臣の秋山虎繁に敗れて戦死し嫡男の小里光次も失った[3]

光忠の次子・小里光明は、天正2年(1574年)に美濃国内の武田家岩村城を攻める拠点として小里城を改修し、池田恒興が城の御番手となった。

天正10年(1582年)の本能寺の変では、光次の子・光久が二条城で戦死している[4]

天正11年(1583年)、小里光明は織田信孝に仕えたが、賤ヶ岳の戦いの後に豊臣秀吉に敗れて信孝が自害した後は、森長可に攻められて小里城を離れ、和田姓を名乗って徳川家康に仕えた。天正12年(1584年)、小里光直は長久手の戦いにて負傷し死去。光明は功により相模国に300石を賜った。その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い岩村城主の田丸直昌西軍に属したので家康は光明と嫡孫の光親に遠山利景とともに田丸直昌を攻めさせた。その功によって小里光親は土岐、恵那郡の旧領を再び与えられ、3,500石の旗本となり小里城に復帰した。その後、大坂の陣でも活躍し元和7年(1621年)1月8日に死去した。親子3代は小里村の興徳寺に葬られた。しかし光親の子・小里光重は嗣子がないまま元和9年(1623年)4月29日に亡くなったため、小里氏は断絶した。
歴代当主

土岐元頼

土岐頼連

小里光忠

小里光次

小里光久

小里光明

小里光親

小里光重

脚注

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^ a b c d e 太田亮 1934, p. 1364.
^ 『小里家譜』
^寛永諸家系図伝
^寛政重修諸家譜


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