この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年8月)
小酒井 不木
誕生小酒井光次
1890年10月8日
愛知県海東郡新蟹江村(現・海部郡蟹江町)
死没 (1929-04-01) 1929年4月1日(38歳没)
墓地八事霊園
職業医学者・随筆家・翻訳家・推理作家・犯罪研究家
言語日本語
国籍 日本
教育医学博士
最終学歴東京帝国大学大学院
活動期間1923年 - 1929年
代表作『疑問の黒枠』(1927年)、『闘争』(1929年)
子供小酒井望(長男、医師)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示
小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1929年4月1日)は、日本の医学者・随筆家・翻訳家・推理作家・犯罪研究家[1]。別名は鳥井零水。医師で順天堂大学名誉教授の小酒井望は長男。
医学者として生理学・血清学の研究で国際的な業績を上げており、また医学的知識を生かした探偵小説・評論・随筆を執筆して探偵小説の大衆化に貢献したとされる。まずは雑誌『新青年』などに犯罪文学研究や殺人論などを発表し、続いて『人工心臓』や『恋愛曲線』や『疑問の黒枠』や『闘争』などの探偵小説を創作した。 1890年(明治23年)10月8日、愛知県海東郡新蟹江村(現・海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家に長男として生まれた[2]。本名は小酒井光次(こさかいみつじ)。父親は小酒井半兵衛であり、村長や郡会議員も務めた人物である[2]。 1895年(明治28年)には新蟹江尋常小学校(現・蟹江町立新蟹江小学校)に入学[2]。幼少の頃から新蟹江尋常小学校に遊びに行っており、一般的な就学年齢より2年早い4歳6か月で入学している[2]。1899年(明治32年)には蟹江尋常高等小学校(現・蟹江町立蟹江小学校)に入学し、1902年(明治35年)に高等小学校を修業した[2]。1902年(明治35年)には愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に入学し、1907年(明治40年)に中学校を卒業した。1907年(明治40年)には第三高等学校(現・京都大学)に入学し、1910年(明治43年)に第三高等学校を卒業した[2]。1911年(明治44年)には東京帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)に入学[2]。在学中の1911年(明治44年)には京都日出新聞に処女小説『あら浪』を連載している[2]。 1914年(大正3年)には東京帝国大学医科大学を卒業し、同年12月には東京帝国大学大学院に入学して生理学・血清学を専攻した。生理学の教授は永井潜、血清学の教授は三田定則だった[3]。三田は犯罪学の権威でもあり、不木や同窓生らはのちに『犯罪学雑誌』の創刊に尽力している[3]。25歳だった1915年(大正4年)1月、愛知県立第一高等女学校(現・愛知県立明和高等学校)の教師である鶴見久枝と結婚した。久枝は海部郡神守村(現・津島市)の地主の娘である。同年には『生命神秘論』を発表しているが、機械論が全盛の生理学会において現象そのものとしての人間をとらえようとした点が重要である[3]。不木と同様に医学と文学の双方で活躍した人物としては、医師であり探偵小説家でもある正木不如丘、皮膚科教授であり詩人でもある木下杢太郎などがいる[3]。 1915年(大正4年)12月には肺炎を病み、片瀬海岸や森が崎に転地療養している。1916年(大正5年)前年の発病から半年後に快癒し、再び研究に従事。1917年(大正6年)12月、27歳で東北帝国大学医学部衛生学助教授に任じられる。文部省より衛生学研究のため海外留学を命じられ、渡英した。1919年(大正8年)、長男・望が生まれた。渡英後、ロンドンで喀血に襲われ、ブライトン海岸に転地療養。小康を得ていったんロンドンに戻った。 1920年(大正9年)、春にフランスのパリに渡った。再び喀血し、南仏で療養。小康を得て帰国。11月に神戸に帰国。10月に東北帝国大学医学部衛生学教授就任の辞令を受けているが、病のため任地に赴けず、長男を親元に預け、愛知県津島市の妻の実家で静養した。 1921年(大正10年)、医学博士の学位を取得した。『東京日日新聞』に『学者気質』を連載するが、篇中にあった「探偵小説」の一項が、前年創刊された探偵雑誌『新青年』(博文館)編集長森下雨村の目に留った。森下は不木に手紙を書き、不木も「喜んで寄稿し、今後腰を入れて探偵文学に力を注ぎたい」と返書。1924年(大正13年)には木下杢太郎が愛知医科大学皮膚科学教授となり、名古屋市において不木と木下を中心とした一種のサロンが形成された[3]。 不木は医学研究の傍らで、随筆の執筆や海外探偵小説の翻訳などを行って探偵小説の普及に貢献した。31歳だった1915年(大正4年)12月には『学者気質』を刊行。1922年(大正11年)に東北帝国大学を退職。静養に努める。『毒及毒殺の研究』を連載。1923年(大正12年)の関東大震災後の10月、親子三人で愛知県名古屋市中区御器所町に新築転居。文筆に専念。『殺人論』『西洋犯罪探偵譚』の執筆、スウェーデンの大衆小説作家サミュエル・オーギュスト・ドゥーゼ 1924年(大正13年)12月、『子供の科学』で少年探偵小説『紅色ダイヤ』連載開始。『西洋医談』『科学探偵』『殺人論』を刊行。
経歴小酒井不木生誕地碑
幼少期・青年時代
医学者として
随筆家・探偵小説家として