小西行長
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 凡例小西 行長
落合芳幾
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕永禄元年(1558年[注釈 1]
死没慶長5年10月1日1600年11月6日
別名弥九郎(仮名)・如信
霊名アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン[2]
墓所禅幢寺岐阜県垂井町
堺公園墓地内の供養塔(大阪府堺市南区
官位従五位下日向摂津守
主君宇喜多直家豊臣秀吉秀頼
氏族小西氏
父母父:小西隆佐(洗礼名:ジョウチン)、母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ
兄弟如清(洗礼名:ベント)、行長、行景(洗礼名:ジョアン)、小西主殿介(洗礼名:ペドロ)、小西与七郎(洗礼名:ルイス)、伊丹屋宗付の妻(洗礼名:ルシア)
妻正室:菊姫(洗礼名:ジュスタ)
側室:立野殿(洗礼名:カタリナ)
小西兵庫頭(名不詳)、某女(名不詳、小西弥左衛門室)、妙(洗礼名:マリア、宗義智室)、浅山弥左衛門
猶子:ジュリアおたあ
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小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。

小西 行長
教派カトリック教会
洗礼名アゴスチノ(アウグスティヌス)
受洗日1584年
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当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。
生涯

永禄元年(1558年)、泉州の商人・小西隆佐の次男として京都で生まれた[注釈 2]

はじめ備前福岡の豪商・阿部善定の手代であった源六(後に岡山下之町へ出て呉服商をしていた魚屋九郎右衛門)の養子となり[4]、商売のために度々宇喜多直家の元を訪れていたが、その際に直家に才能を見出されて抜擢されて武士となり、家臣として仕えた[5]織田氏の家臣・羽柴秀吉三木城攻めを行っている際、直家から使者として秀吉の下へ使わされた。この時、秀吉からその才知を気に入られ、臣下となる[5]
秀吉近臣時代

豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いた。天正13年(1585年)には摂津守に任ぜられ、また豊臣姓を名乗ることを許される[6]。同年の紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したといわれている。また一方で、太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も動員して攻撃し、開城のきっかけを作ったともいわれている。

天正13年(1585年)、小豆島で1万石を与えられた[注釈 3]

これに前後して、天正12年(1584年)には高山右近の後押しもあって洗礼を受けキリシタンとなる[6]。小豆島ではグレゴリオ・デ・セスペデスを招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。また、天正15年(1587年)のバテレン追放令の際に改易となった右近を島に匿い、秀吉に諫言している[6]

天正14年(1586年)10月頃より摂津守を名乗り、没するまで摂津守を名乗ることになるが、天正15年(1587年)3月から5月の時期のみ日向守を名乗っている[7]
宇土城主時代

天正15年(1587年)の九州平定、天正16年(1588年)の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後国の南半国宇土益城八代の三郡20万石あまりを与えられた。

天正17年(1589年)、宇土古城の東の地(現在の熊本県宇土市古城町)に新たな宇土城を築城し、本拠とした。小丘陵の城山の頂上に本丸、西に二の丸・堀と石垣三の丸を配し、それぞれを堀と石垣で囲んだ近世城郭であった。鎌倉時代末期に宇土氏によって築かれた宇土古城とともにみると、鶴が翼を広げているように見えたことから「鶴の城」の異名を持つ。

この宇土城普請に従わなかった天草五人衆とは戦になり(天草国人一揆)、これを加藤清正らとともに平定。天草1万石あまりも所領とした。秀吉は、後の朝鮮出兵を視野に入れて、水軍を統率する行長を肥後に封じたという[8]

このころ天草は人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンであり、60人あまりの神父、30の教会が存在したという。志岐氏の所領である志岐には宣教師の要請によって画家でもあるイタリア人修道士(イルマン)ジョバンニ・ニコラオが派遣され、ニコラオの指導下で聖像学校が営まれ、油絵、水彩画、銅版画が教えられ聖画・聖像の製作、パイプオルガンや時計などの製作が行われていた。学校は後の文禄3年(1594年)、有馬半島八良尾のセミナリオと合併し[注釈 4]、規模を拡大したが、これらイエズス会の活動に行長は援助を与え保護した。

行長の宇土城は水城として優れた機能を持っていたというが、秀吉の意を受け、相良氏統治時代からこの地域の海外貿易の中心地であった八代(徳淵津)[注釈 5]にも、麦島城を築城して水利を強化し、重臣の小西行重を城代として配置した。行長は従来の山頂にあった古麓城を廃して、麦島城を球磨川と八代海に面する河口の島に建て、堀から外水を引きれて浮城としたので、直接、船で出入りできた。このほか隈庄城、木山城、矢部城、愛藤寺城を支城とし、隈庄城に弟の小西主殿介、愛籐寺城に結城弥平次ら一族重臣を城代に任じている。また高山右近の旧臣(キリシタン)が多く家臣に取り立てられた。

しかし、残りの肥後北半国を領した清正とは次第に確執を深めることになった(後述)。
文禄・慶長の役文禄の役における小西行長の進路(黄線)

文禄元年(1592年)からの文禄の役に際しては、行長と加藤清正の両名が年来先鋒となることを希望していたが、秀吉は行長を先鋒として、清正は2番手とした。出陣に際して秀吉より大黒の馬を贈られている。戦端が開かれると釜山の攻略を皮切りに、次々と朝鮮軍を破り(釜山鎮の戦い東?城の戦い尚州の戦い忠州の戦い)、清正に先んじて漢城を占領し、さらに北進を続け平壌の攻略を果たす(大同江の戦い)。


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