小西 得郎
基本情報
国籍 日本
出身地東京府麹町区(現・東京都千代田区)
生年月日 (1896-07-10) 1896年7月10日
没年月日 (1977-06-09) 1977年6月9日(80歳没)
選手情報
投球・打席右投右打
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
日本中学
明治大学
監督・コーチ歴
大東京軍
ライオン軍 (1936 - 1938)
名古屋軍 (1939 - 1940)
松竹ロビンス (1950)
大洋ホエールズ
大洋松竹ロビンス (1952 - 1953)
大和証券
野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1971年
選出方法特別表彰
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。
小西 得郎(こにし とくろう、1896年7月10日 - 1977年6月9日)は、昭和期のプロ野球監督、野球解説者。
プロ選手を経験しなかったことに加え、審判員や球団売買の仲介を経験した異色の経歴を持つ。ラジオおよびテレビの実況中継放送における「独特の話法[1]」での解説が知られた。同時代の野球解説において大和球士と双璧を成した。 東京府麹町区出身。小西は「私は東京生まれだが、言葉は田舎育ちの両親の影響を受けている」と述べている[2]。父・小西増太郎は広島県生まれ[2]、岡山県児島育ち[3] のロシア文学者で、京都帝国大学教授を務めた。増太郎は学生時代にはヨシフ・スターリンと知り合いであったという[4][5]。母は愛知県知多半島の中須生まれ、半田育ち[3]。父が15、16のとき、志を立てて東京に出てきたのち母と出会い、得郎が生まれた[3]。小西は父から「私の祖先は鞆の浦出の小西、それが備前の国は岡山に行って小西行長となったと聞かされた」と自著で述べている[3][4]。 旧制日本中学(現・日本学園中学校・高等学校)を経て、東京帝国大学や京都帝国大学への登竜門として超難関校だった三高の入試に合格。しかし野球をしたいがために三高への入学はとりやめ、明治大学に進学した。明大では第8代キャプテンとして東京六大学リーグで活躍。 大学卒業後、石川島造船に勤務し、月島で石炭の採掘に従事[6]。2、3ヶ月ののち、営業部に配属されるが間もなく退職。友人と上海で阿片の密売を行う[7]。その後軍隊生活を経て、営業マン時代に鉄道省や電力会社に対する接待や商談の場として神楽坂の料亭をよく利用した縁で同地に9年間居つき、やがて32歳で神楽坂の置屋の主人となる[8][9]。置屋の設立資金は先の阿片密売で得た金だったという[10]。 小西は置屋を経営するかたわら、1927年(昭和2年)から始まった都市対抗野球大会に審判員として出場する。第1回大会では、開幕戦の球審を務めた。 1936年秋、小西は大学の後輩である[11]田部武雄に、「職業野球の新球団として、岐阜県に関西鵜軍(コーモラント、鵜飼の鵜の意)というチームを作るので監督になって欲しい」と依頼される[12][13]。この新球団構想は結果として頓挫したが、その際に調整役となった大東京軍の親会社・國民新聞の社会部長・鈴木龍二と知己を得たことをきっかけに、小西は大東京軍の2代目監督に就任[12]。鈴木は同社主幹・田中斉と赤嶺昌志の抜擢により球団常務(球団代表)となった[12]。その際、球団経営のノウハウはおろか、野球のルールも理解していなかった鈴木に対し、小西は一緒に旅行をしては、野球知識の手ほどきをした[12]。チームが資金難で行き詰まった際、小西は大橋財閥
来歴
生い立ち、職を転々
野球との再会
小西は大東京軍監督を2年半で辞任。その後名古屋軍の監督を務めたほか、大橋オーナーの出身会社・共同印刷の系列会社を転々とした[14]。ただし大東京軍や野球関連の交渉事には関与し、田村駒治郎(大橋と妻同士が姉妹だった)の経営参加の要請交渉に鈴木と同席したほか、1942年シーズン終了後に審判員を辞任した明大の後輩・横沢三郎を共同印刷に入社させた[15]。 小西は終戦直後には、焼け野原となっていた東京・新橋駅前、銀座にほど近い所で、ニクロム等の合金製品を扱う「仙台製作所・東京出張所」を経営していた[16][17][18]。粋な遊び人として知られた小西は、焼け跡の闇市を牛耳るヤクザの親分と昵懇であったという[17]。警官の追跡を逃れ「仙台製作所」の事務所へ飛び込んで来た彼を、小西がかくまったことで、「恩返し」と称し、どこからともなく闇の食糧や生活物資などが届き始めたといわれる[19]。
プロ野球復興