小菅 剣之助(こすげ けんのすけ/こすが けんのすけ[1]、常用漢字制定前は小菅剱之助、元治2年1月24日(1865年2月19日) - 昭和19年(1944年)3月6日)は、将棋棋士(名誉名人)、実業家、国会議員。八代 伊藤宗印門下。愛知県名古屋市出身。
将棋界が近代の形へ移っていく最初期の棋士であり、近代将棋界を確立した関根金次郎の兄弟子であるが、各地に将棋組織が乱立し、その統一で揉めた一連の過度期の中では既に引退し、棋界から離れていた人物である。しかしながら、関東将棋界と関西将棋界が決定的に決裂した神田事件において仲裁を行い、将棋大成会として再統一を果たし、その功労で名誉名人の称号を贈られた。 庄屋の子として生まれる。1877年に上京して勉学に励んだが病気のために翌年一旦帰省。将棋を本格的に初めて1879年に再び上京し、八代 伊藤宗印に入門。二段となる。20歳で四段となり諸国を漫遊。1887年に三たび上京し、宗印の内弟子となる。1888年春六段。1893年七段。1904年八段。 師匠の宗印が亡くなった1893年に現役引退し、実業界に転じる。米穀取引の仲介を営みながら自身も相場をはった。失敗するたびに場所を変え、1900年に四日市市に落ち着く。その後株式売買、木材取引、土地開発に着手。1920年に当時の三重県1区から第14回衆議院議員総選挙に立候補して当選し衆議院議員となったが、一期務めただけで引退している。 十二世名人の小野五平が死去した1921年に名人に推されたが辞退[要出典]。同年、弟弟子の関根金次郎が十三世名人になった。 1936年の神田辰之助の八段昇段を巡って将棋界が分裂した、いわゆる神田事件の際に調停の役割を果たし、「将棋大成会」の結成に尽力、自ら命名した。同年11月16日に名誉名人の称号を贈られた。「その数年後、十四世名人となって経営の指導にかかわってほしいという意見が、将棋大成会内であったが、小菅が固辞した」と、大山康晴は記している[2]。 1944年3月6日、熱海の別荘で死去。 八代伊藤宗印の実戦集「将棋名家手合」を編集した。 日本将棋連盟に所属した物故棋士とは紹介されないものの連盟の棋士系統図においては祖の一人となっている[3]。 小菅自身の直弟子として後の将棋連盟所属棋士にも系譜が続いているのは山本樟郎
目次
1 人物
2 弟子・系譜
3 著書
4 名局集
5 関連書籍
6 テレビ番組
7 脚注
8 関連項目
人物
弟子・系譜
著書
将棋名家手合 伊藤宗印 著,小菅剣之助 編,信藤長兵衛 訂 大倉書店 1893
名局集
小菅剣之助名局集 大山康晴 (著) 日本経済新聞社 1982/6
関連書籍
運命を指す男―勝負師小菅剣之助の生涯 倉島竹二郎著 冬樹社 1964
テレビ番組
名勝負の解説 小菅剣之助特集(囲碁将棋チャンネル)
小菅剣之助六段 vs 小野五平八段(香落ち) 対局日:1890年12月7日
小菅剣之助六段 vs 関根金次郎四段(平手) 対局日:1891年6月26日
小菅剣之助六段 vs 相川治三吉
[ヘルプ]
^ 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
^ 『将棋昭和史』(岩波新書)P.37
^ 日本将棋連盟「棋士系統図」
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更新日時:2019年6月6日(木)13:31
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