小笠原長時
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 凡例小笠原 長時
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕永正11年10月23日1514年11月9日
死没天正11年2月25日1583年4月17日[1]
改名豊松丸(幼名)、長時、湖雪斎(法号)
別名又二郎、右馬助(通称)[1]
戒名長時院殿
墓所福島県会津若松市大龍寺
官位従五位上[1]、信濃守[1]、大膳大夫[1]
幕府室町幕府 信濃守護[1]
主君足利義輝義栄上杉謙信織田信長蘆名盛氏
氏族府中小笠原氏
父母父:小笠原長棟[1]、母:浦野弾正忠の娘
兄弟長時、信定、清鑑、洞雪斎、統虎、妹(藤沢頼親室)
正室仁科盛能の娘・仙操院殿梅室春光大姉
長隆、貞次、貞慶[1]
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小笠原 長時(おがさわら ながとき)は、戦国時代の武将。信濃国守護で戦国大名。信濃小笠原氏の当主。信濃林城主。小笠原長棟の長男。小笠原流弓馬術礼法宗家。信濃四大将のひとり。
生涯

大永6年(1526年)11月5日、13歳で元服する。家督を継いだのは天文10年(1541年)、父長棟が出家したときと思われる。この頃から当主として小笠原一族を率いている(長棟の死去は天文11年(1542年))。

信濃隣国の甲斐国では小笠原氏と同じ甲斐源氏の一族である守護武田氏により国内統一がなされ、長時と同じ年に家督を相続した武田晴信(信玄)は信濃侵攻を開始する。天文14年(1545年)に晴信は高遠頼継藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ出兵し、4月17日に武田勢は頼継の高遠城を陥落させる。さらに長時の娘婿でもある福与城の頼親を攻めると、長時は北方の龍ヶ崎城(辰野町)において武田方に対抗する(「小平物語」)。武田勢は甲斐や今川・北条の援軍を得て同年6月1日には武田家臣板垣信方の軍勢が龍ヶ崎城を陥落させ、長時は敗退している(『高白斎記』)。長時は弓馬に優れた勇猛な武将であったが、部下を統率する能力は芳しくなかったという[2]

武田勢は伊那を制圧すると佐久侵攻を進め、小県郡の有力国衆である村上義清と対立する。天文17年(1548年)2月には小県郡上田原の戦いで義清は武田勢を撃破し(『高白斎記』『勝山記』)、長時は同年4月に村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡へ侵攻する(「神使御頭之日記」)。さらに6月にも諏訪西方衆らを迎合して諏訪侵攻を行い(「神使御頭之日記」)、6月19日に塩尻峠へ進撃するが武田勢に敗退している(塩尻峠の戦い)。

天文19年(1550年)7月15日には本拠の林城も失い(林城の戦い)、信濃小笠原氏は没落した(『高白斎記』)。同年には代々室町幕府の奉公衆であった同族である京都小笠原氏の小笠原稙盛(秀清の父)を介して将軍足利義輝に太刀・馬を献上しており、信濃国衆に対する下知を約束されている。没落後の長時は中塔城の二木氏を頼り越後へ逃れたとも(「二木家記」)あるいは実弟である鈴岡城の小笠原信定のもとへ逃れたとも言われるが(「笠系体成」)、以後の正確な動向は不明。

駿河や伊勢を経て[3]、弘治元年(1555年)には同族の摂津国芥川山城三好長慶を頼って上洛[4]、上方に滞在している(『言継卿記』)。また、正確な年代は不明[5]であるが、この時期に長時が醍醐寺に対して曲直瀬道三の治療によって長慶の病気回復を伝えた書状[6]には、自身の近況についても触れ長慶の人質であった細川六郎(後の昭元)に対して長時が馬術指南を行っていることを記している[7]

信濃では村上義清ら北信豪族が越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・上杉間の川中島の戦いが繰り広げられており、永禄元年には甲越和睦の一環として武田晴信が信濃守護に補任されているが晴信は和睦後も軍事行動を続け、将軍義輝は景虎への信濃介入を認めている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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