小笛事件
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この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。

小笛事件(こふえじけん)は、1926年大正15年)に京都府京都市で発生した4女性の変死事件である。

経過年月日事柄
1926年06月28日事件発生。
07月01日広川条太郎、検挙される。
07月12日小南又一郎による法医鑑定。
(他殺説)
07月13日広川、起訴される。
1927年06月27日京都地裁で一審公判開始。
草刈春逸による鑑定。(自殺説)
08月12日中田篤郎による鑑定。(他殺説)
08月26日三田定則による鑑定。(自殺説)
09月19日高山正雄による鑑定。(他殺説)
11月17日矢野春利による鑑定。(自殺説)
12月12日一審終了。広川に無罪判決。
1928年05月18日大阪控訴院で控訴審公判開始。
09月17日浅田一による鑑定。(自殺説)
09月22日石川哲郎による鑑定。(自殺説)
11月30日検察側により無罪論告。
12月05日控訴審終了。広川に無罪判決。

6月30日、京都市北白川に住む平松小笛の自宅で、小笛とその娘、そして小笛が預かっていた知人の娘2人が死亡しているのが発見された。現場の様子は小笛が3人を巻き込んで心中を遂げたもののように思われたが、小笛の遺体には索溝が2条あるなど、他殺を疑わせる所見もあった。最初に行われた法医鑑定の結果では小笛の死因が自殺を偽装した他殺とされたため、当局は小笛の愛人であった広川条太郎を検挙した。

しかし、京都地裁で開かれた一審では5人の鑑定人が提出した再鑑定結果が、小笛の死因について自殺説と他殺説の2派に分裂した。結局、1927年昭和2年)12月12日に下された一審判決では、広川は証拠不十分により無罪とされたが、検察側控訴した。大阪控訴院での二審では、さらに2人の鑑定人による再々鑑定結果が提出されたが、これは両方とも小笛の死因を自殺とするものであった。これを受けて検察側は、自ら広川の無罪を求める論告をなすという異例の対応を行い、これによって1928年(昭和3年)12月5日、大阪控訴院は再度の無罪判決を広川に言い渡し、事件は終結した。

判決から4年後の1932年(昭和7年)には、推理作家山本禾太郎が事件を扱ったノンフィクション小説を書いたことでも知られる。
背景.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}平松小笛(左)と広川条太郎(右)

1926年大正15年)当時、京都府京都市上京区(後に分区され左京区)の北白川西町に、平松小笛(ひらまつ こふえ)という47歳の女が住んでいた[1]。小笛は、17歳になる養女のAと2人で、京都帝国大学農学部からほど近い長屋に暮らしていた[1]。その一方で小笛には、兵庫県神戸市の信託会社に勤務する、広川条太郎(廣川條太カ、ひろかわ じょうたろう)という、当時27歳の愛人がいた[2]。小笛は数年前まで出町柳で下宿屋を営んでおり、京大生であった広川はそこに下宿するうち、小笛と関係を持つようになった[2]。やがて小笛は経営難から下宿屋を畳むなど困窮するようになったが、一方で広川も、大学卒業後も小笛との愛人関係を清算できないままでいた[2]

加えて同時期には、広川は小笛のみならず娘のAとも関係を持つようになっており、これに対し小笛は広川にAと結婚するよう迫った[3]。しかし広川には結婚の意志など毛頭なく、小笛に金を支払って済ますのみであった[3]。経済的に行き詰まり、頼れる係累もなく、さらにはAが心臓弁膜症で長くは生きられないとの診断も受けたため、追い詰められた小笛は周囲に心中の意志を漏らすようになっていた[4]
事件と捜査小笛の縊死体の写真(左)とスケッチ(右・矢野鑑定書付図)

6月27日、小笛とAは出町柳の知人宅を訪れ、その家の2人の娘(5歳と3歳)を預かっていった(平松家はこの知人一家と親しく、子供たちを家に泊めることもよくあった)[1]。しかし、その後数日経っても小笛らが姿を見せないことを不審に思った知人は、同月30日に巡査に頼んで小笛宅の鍵を開け、屋内を確かめることにした[5]。そしてそこには、寝床の中で手拭で絞殺されている2人の娘とA、そして鴨居から兵児帯で首を吊っている小笛の4人の遺体があった[5]

現場には外部からの出入りの痕跡はなく、遺体の様子は一見して、小笛が知人の娘たちを巻き込んで母子心中を図ったもののように思われた[6]。だが、直後に予審判事が行った現場検証では、小笛の遺体には索溝(首を絞めつけられた痕)が2条ある点や、両足が床に着くほどに兵児帯の位置が低い点など、自殺としては不自然に思われる部分が発見された[6]
第1の鑑定(小南鑑定)

予審判事は、遺体をさらに詳しく調査するため、現場検証にも立ち会った京大医学部法医学教室教授の小南又一郎に遺体の法医解剖を命じた[7]。そして小南は、小笛の遺体について次のような鑑定結果を7月12日に提出している[8]。すなわち、

小笛の頸部に認められる(イ)(ロ)2条の索溝は、上部の(イ)溝には皮下出血がまったくなく、下部の(ロ)溝には明らかな皮下出血(すなわち生活反応)がある[9]。これを説明する死亡の機序はいくつかあるが、

最初に(ロ)溝の位置で首を括ったが、死にきれず(イ)溝の位置で首を括り直した

しかし、(ロ)溝の深い痕からみて死にきれなかったとは考えられない


(ロ)溝の位置で首を括り、死後に体位が変化して帯が上へ滑り、(イ)溝が形成された

しかし、2溝の間の皮膚には何ら変化がなく、また2溝の角度もそれぞれ違い過ぎている

との矛盾もあり、つまりは何者かが(ロ)溝の位置で小笛を絞殺し、その後遺体を鴨居へぶら下げて自殺を偽装したとの仮説が最も合理的である、というものであった[10]。そして、小笛の手足から発見された痣も、襲われた小笛が抵抗した痕跡とみることができる、とした[11]

遺体上半身の拡大図(小南鑑定書付図)

遺体頸部の2条の索溝(イ)(ロ)(高山鑑定書付図。矢印は高山が推定する犯行様態である点に注意)

広川への疑惑

遺体の不自然さの他にも当局の疑念を深めたのは、現場から発見された小笛の遺書の1通であった[12]


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