小窪 哲也千葉ロッテマリーンズ #36
広島時代
(2018年、日南市天福球場にて)
基本情報
国籍 日本
出身地奈良県葛城市(旧北葛城郡當麻町)
生年月日 (1985-04-12) 1985年4月12日(36歳)
身長
体重175 cm
83 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション内野手
プロ入り2007年 大学生・社会人ドラフト3巡目
初出場2008年4月26日
年俸500万円(2021年)[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
PL学園高等学校
青山学院大学
広島東洋カープ (2008 - 2020)
火の国サラマンダーズ (2021)
千葉ロッテマリーンズ (2021 - )
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小窪 哲也(こくぼ てつや、1985年4月12日 - )は、奈良県葛城市(旧:北葛城郡當麻町)出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。千葉ロッテマリーンズ所属。目次 野球を始める前は水泳をやっていたが、交友関係を広げるために當麻町立磐城小学校1年から「磐城デンジャーズ」で野球を始め「香芝ボーイズ」に移り、5年生で全国優勝。6年生では日本代表として世界大会に出場。當麻町立白鳳中学校(香芝ボーイズ中学部)では日本代表の4番・主将としてアジア大会に出場した。 PL学園では2003年第85回全国高等学校野球選手権大会に出場し、2回戦敗退ながら8打数6安打の活躍が評価され、第5回AAAアジア野球日本代表としてアジア大会銅メダルに貢献した。 青山学院大学では東都大学一部リーグで4度のベストナインに選ばれた。東都大学一部リーグの2005年春季リーグ戦から2006年春季リーグ戦まで大ア雄太朗、高市俊、横川史学、円谷英俊などとともにリーグ戦3連覇を達成。2007年の春季リーグ戦では、打率3割7分3厘で首位打者のタイトルを獲得。リーグ通算95試合出場、344打数93安打、打率.270、7本塁打、39打点。2005年第54回全日本大学野球選手権優勝、第34回日米大学野球日本代表
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 広島時代
1.3 KAL・熊本時代
1.4 ロッテ時代
2 選手としての特徴・人物
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 年度別守備成績
3.3 記録
3.4 背番号
3.5 登場曲
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
6 外部リンク
経歴
プロ入り前
ポジションは、高校時は遊撃手、大学時は二塁手・遊撃手[2]。
2007年11月19日、プロ野球の大学生・社会人ドラフトで、広島東洋カープに3巡目で指名された。11月23日、推定契約金7,500万円、年俸1,200万円で仮契約し、入団。入団会見では大学の先輩、高須洋介のような勝負強い選手になることを目標に掲げた。背番号についてはルーキー時「12という番号は投手っぽくてあまりピンと来ませんね。将来は1桁か25番がいいですね」と述べており、2010年からは4番に変更された[3]。
広島時代 打席での小窪(2017年7月28日、ウエスタンリーグにて) 2017年6月21日、ウエスタンリーグにて 2018年2月18日、日南市天福球場にて
2008年、春季キャンプは一軍スタートが決まったが、キャンプ直前の自主トレ期間中に広島名産の生ガキを食べ過ぎて体調を崩し、練習を数日間休む。キャンプには問題無く参加したが、2月中頃には二軍に降格。そのまま開幕一軍を逃したが、ウエスタン・リーグでは2番に定着して好調を維持。4月26日に一軍初昇格、同日の対横浜ベイスターズ戦で8回に高橋建の代打としてプロ初出場し、送りバントを決めた。4月29日対読売ジャイアンツ戦で8番遊撃手としてプロ入り初スタメンをはたし、2打席目で初安打を記録。3打席目で初打点を挙げた。5月4日の対横浜戦では寺原隼人から決勝適時打を打ち、初のお立ち台に立っている。この試合の解説を務めた大下剛史は、「今までのカープに足りなかった内野手が現れた」と評した。初昇格後は二軍に降格することなくシーズン最後まで一軍に残った。梵英心の不調もあって遊撃手を守ることが多かったが、二塁手や学生時代はほとんど守らなかった三塁手もこなすなど活躍した。
2009年、ベテラン石井琢朗が加入し、キャンプから遊撃手のポジションは激戦区となり、初の開幕一軍入りを果たす。ところが首脳陣から復活の期待が大きかった梵や安定した守備力のある石井の影に隠れ、スタメンでの出場は少なく、代打でも結果を残せなかったこともありシーズン中盤には二軍落ちを経験する。8月には梵の二軍降格による入れ替え(この時小窪は由宇球場で二軍の試合に出場しており、突然の呼び出しで試合を早退した)によりスタメンで出場する機会が増え、打率は3割以上を保ち、2番を打つ試合が多くなる。終盤は相手先発投手の利き手にあわせて石井と併用された。最終的には前年と比べて出場機会は減る形となったが、打率や出塁率などは前年より向上した。一方で遊撃の守備では20試合以上も出場試合が減ったのに前年と同じ6失策を記録した。しかし、シーズン終盤になるとファインプレーを度々見せるなど課題の守備も向上した。
2010年、遊撃のポジションこそ梵に明け渡したが、ジャスティン・ヒューバーの不振から栗原健太が三塁から一塁に戻ったことで空いた三塁のレギュラーを任された。しかしシーズン序盤から打撃不振に陥り、守備でも打球の速い三塁の守備に苦戦し、63試合で10失策を記録した。調子が上がらないまま徐々に石井と併用され、また夏場には好調な岩本貴裕が一塁のレギュラーに定着したことで再び栗原の守備が三塁メインになったため、スタメン出場の機会をさらに失った。10月に台湾で開催された第17回IBAFインターコンチネンタルカップの日本代表に選ばれ主将を務めた。