小畑英良
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小畑 英良
小畑英良
生誕1890年4月2日
大日本帝国 大阪府
死没 (1944-08-11) 1944年8月11日(54歳没)
アメリカ合衆国 グアム島
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1911年 - 1944年
最終階級 陸軍大将
指揮第31軍司令官
第3航空軍司令官
第5飛行師団
戦闘第二次世界大戦
*フィリピンの戦い (1941-1942年)
*ビルマの戦い
*サイパンの戦い
*グアムの戦い
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又木山戦闘司令部壕跡

小畑 英良(おばた ひでよし、1890年明治23年)4月2日 - 1944年昭和19年)8月11日)は、日本陸軍軍人。官位は陸軍大将(没後進級)従三位勲一等。弟に小畑信良
経歴

漢学者、小畑万治郎の五男として大阪府で生まれる。大阪陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月に陸軍士官学校23期)を卒業。同年12月に騎兵少尉に任官、騎兵第11連隊付となる。1919年大正8年)11月、 陸軍大学校31期)を優等で卒業。その後、陸軍大学校教官、イギリス駐在、インド駐剳武官参謀本部演習課長、騎兵第14連隊長などを歴任し騎兵畑を歩んだ。

1937年(昭和12年)から航空畑に転じ、明野陸軍飛行学校長、航空兵団司令部付などを歴任。1940年(昭和15年)、陸軍中将第5飛行集団長となり、さらに第5飛行師団長、第3航空軍司令官などを経て、1944年(昭和19年)2月に第31軍司令官となり、サイパン島防衛に当たる。6月15日米軍サイパン上陸時には、幕僚とともにパラオ方面に出張しており、サイパン島周辺が米軍の制空権下に入ったため、司令部に帰還できぬ状況となった。結局、現地を井桁敬治参謀長に任せ、小畑はグアム島から可能な限り指揮を執ることとした。サイパン陥落後、第31軍司令部はグアムで再編成されその防衛に当たる。7月21日米軍の上陸が開始され、日本軍はサイパンと同様に水際撃退作戦をとるが、激しい砲爆撃により大きく戦力を消耗し後退。8月11日に小畑は玉砕を覚悟した最後の総攻撃を下命するにあたり、天皇ならびに大本営に対し、己れ身を以て、太平洋の防波堤たらん

との決別の辞を打電、又木山戦闘司令部壕内にて田村義冨参謀長をはじめ60余名の将兵とともに自決戦死後、同年9月に陸軍大将に進級した。
年譜

1911年(明治44年)
5月27日 陸軍士官学校卒業(23期恩賜)

12月26日 陸軍騎兵少尉


1919年(大正8年)11月26日 陸軍大学校卒業(31期恩賜)

1920年(大正9年)8月 陸軍騎兵大尉

1921年(大正10年)4月 陸軍大学校教官

1923年(大正12年)4月 イギリス駐在

1927年(昭和2年)11月15日 インド駐剳武官

1934年(昭和9年)8月1日 陸軍騎兵大佐・参謀本部演習課長

1938年(昭和13年)3月1日 陸軍少将

7月15日 明野陸軍飛行学校長


1940年(昭和15年)12月2日 陸軍中将・第5飛行集団長

1942年(昭和17年)4月15日 第5飛行師団長

1943年(昭和18年)5月1日 第3航空軍司令官

1944年(昭和19年)2月25日 第31軍司令官

8月11日 グアム島で戦死

9月30日 陸軍大将に昇進


1945年(昭和20年)1月31日 勲一等旭日大綬章

栄典
位階


1940年(昭和15年)12月28日 - 従四位

1943年(昭和18年)1月15日 - 正四位

1944年(昭和19年)9月30日 - 従三位

勲章


1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[1]

1941年(昭和16年)10月7日 - 勲一等瑞宝章[2]

親族

妻 小畑加奈子(
川村景明元帥陸軍大将の孫)

兄 小畑薫良(外務省翻訳官、日本国憲法草案を翻訳)

小畑忠良(内閣企画院次長)・小畑信良(陸軍少将)

脚注^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
^ 『官報』第4429号「敍任及辞令」1941年10月10日。

参考文献

秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。

外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

関連項目

フィリピンの戦い (1941-1942年)

ビルマの戦い

サイパンの戦い

グアムの戦い


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