小田 観螢
(おだ かんけい)
『孤舟寿言集』(1946年発行)
誕生 (1886-11-07) 1886年11月7日
岩手県九戸郡宇部村
死没 (1973-01-01) 1973年1月1日(86歳没)
職業歌人、教員
国籍 日本
ジャンル短歌
主な受賞歴北海道文化賞(1946年)[1]
北海道新聞文化賞(1956年)[1]
小樽市功労者賞(1970年)[1]
影響を受けたもの
太田水穂
影響を与えたもの
中城ふみ子、菱川善夫
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小田観螢[1][2]
小田観蛍[3][4]
小田觀?[5]
小田 観螢(おだ かんけい、1886年〈明治19年〉11月7日 - 1973年〈昭和48年〉1月1日[1])は、日本の歌人。本名は小田哲弥[2]。北海道歌壇の草分け、北海道歌壇の功労者とされる[6]。二度にわたって妻を喪いながらも歌を詠み続けたことから、「逆境の歌人」とも呼ばれる[6][7]。 岩手県九戸郡宇部村(後の久慈市)で誕生した。伯父である小田為綱の教育の賜物で、13歳のとき中国の歴史書『一八史略』を読み、周囲を驚かせた[2]。 1900年(明治33年)、家が破産したために学業を断念、母方の叔母を頼って一家で北海道小樽にわたり、観螢は奥沢小学校の代用教員として勤めた。その後も北海道各地に転任し、開拓民の子供たちに教えつつ、自らも農業に携わる、半農半教の生活を送った[2]。 一方では文学の関心も高まっており[2]、小樽最古の和歌の結社「小樽興風会」に入会したことをきっかけに、歌人となった[3]。北海道の文芸誌に加え、若山牧水の『創作』、太田水穂の『潮音』にも出詠し、歌人として次第に認められ始めた[2]。 1911年(明治44年)8月、教員仲間と十勝岳に登山中に遭難し、10日目に奇跡的に救助された[6]。この遭難で、歌人としてさらに脚光を浴びることなった[6]。観螢はこの遭難の最中ですら、「火を焚けど背(そ)びら冷たく霧ふりてまどろむ間なく夜はあけにけり」「氷雨ふるこごし岩根に深山鳥(みやまどり)巣ごもり鳴けば涙しくだる」と短歌を詠んでいた[6][5]。夜もクマの襲撃を避けて木の上で夜を明かしつつ、歌を詠んだ[7]。この遭難にまつわる連作は、後に第1歌集『隠り沼』に収録された[3]。 1916年(大正5年)、富良野の鳥沼小学校の訓導兼校長となった。この頃には妻との間に3人の娘をもうけていたが[2]、翌1917年(大正6年)に、妻が急性肺炎により急逝した。観螢は学校の傍らで、遺された3人の幼い娘を育てたが、その苦境の最中にも短歌への情熱を失うことはなく[8]、慟哭ともいえる連作を作った[9]。1918年(大正7年)、山梨の歌人である米倉久子と再婚[10]。
経歴
歌人の道へ