凡例小田 氏治
小田氏治像(法雲寺蔵[1])
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文3年(1534年)[2]
または享禄4年2月24日(1531年3月12日)[3][4]
死没慶長6年閏11月13日(1602年1月6日)
改名小太郎(幼名)→小田氏治→天庵(法号)
墓所永平寺、新善光寺
官位諸系図では讃岐守を称するが、当時の史料では確認できない[5]
幕府室町幕府
氏族小田氏
父母父:小田政治
母:上曾治重
小田 氏治(おだ うじはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての常陸の武将・戦国大名。 本姓は藤原氏(中臣鎌足、藤原道兼(道長の兄)を祖)とする他、家系は宇都宮氏の一門・八田知家を祖とする関東の名族小田氏で、関東八屋形の一つ。常陸の大名小田氏15代にして小田氏最後の当主。後に出家して天庵(てんあん)を号す。小田政治の子。小田友治、小田守治の父。室町幕府第12代将軍足利義晴の従弟に当たる。娘(年齢的に守治の妹)に結城秀康(徳川家康の子)の側室がいる。 常陸の佐竹義昭・義重父子や下総の結城政勝・晴朝父子、越後の上杉謙信と戦い、相模の北条氏康・氏政父子と手を結んで父祖代々の地の防衛に努めた。30年以上にもおよぶ本城・小田城争奪戦など度重なる合戦でしばしば勝利を収めるも、上杉氏や北条氏の援助が弱まり孤立すると佐竹氏の激しい攻撃に晒された。晩年は豊臣秀吉に所領を没収され大名小田氏は消滅したが、後に結城秀康に仕えた。[9] 父・政治が天文17年(1548年)7月22日に56歳で死去し[5]、小田氏の家督を相続した。政治の代で小田氏は河越夜戦で関東管領上杉・古河公方足利連合軍に味方して敗れ、北条・佐竹両氏の拡大により小田氏の勢いに陰りが見え始めていた。家督を継いだばかりの氏治にとって最大の敵は、下総の結城城主・結城政勝であった。同年、小田氏配下の真壁城主・真壁久幹が結城政勝の家臣・水谷治持 弘治元年(1555年)、小田氏治は常陸太田城主・佐竹義昭と共に出兵し、相模の北条氏康と通じた結城政勝を攻めた[13]。翌・弘治2年(1556年)(弘治3年説有り)2月4月5日[5]、結城政勝は北条氏康から援軍として武蔵の岩付城主・太田資正と江戸城主・遠山綱景を授けられ、小田領へ侵入した。氏治はこれを迎え撃つも海老ヶ島の戦いで敗れ、海老ヶ島城だけでなく居城・小田城も奪われ土浦城に入る[5]。しかし常陸進出を目指す北条氏康は、常陸北部の佐竹義昭に対抗するため氏治と和解。8月24日[5]、氏治は北条氏の助力を得られなくなった結城勢を追い払い、小田城へ戻っている[11][14]。
人物と家系
生涯
結城政勝との戦い
佐竹義昭との戦いが立て篭もる海老ヶ島城を攻撃した。3月、氏治は下妻城攻撃に向かったが、多賀谷政経の救援に駆けつけた佐竹義昭に黒子の戦い
永禄2年(1559年)8月、宿敵・結城政勝は56歳で没し、その子明朝は痘を患って危急であったため、9月に氏治はこの機に乗じて結城城に押し寄せた。しかし当時下野の小山高朝(結城政勝の実弟)が結城城に在城しており結城氏・小山氏が協力して防戦した上、鬼真壁と恐れられる結城方の真壁氏幹(真壁久幹の子)に阻まれ敗退を余儀なくされた。氏治は逆襲に遭い、9月に北条城を結城氏に奪われ、海老ヶ島城も佐竹・多賀谷連合軍に攻められ城将・平塚自省が討ち死にして落城した[16][17]。 永禄3年(1560年)、越後の上杉謙信が北条氏康に敵対する関東諸将からの要請に応え、初めて北条討伐のため自ら関東へ出陣した。氏治を含む殆どの関東諸将は上杉謙信に従ったが、結城政勝亡き後の結城氏当主・結城晴朝は引き続き北条氏康と結んでいた。永禄4年(1561年)1月、氏治は佐竹義昭・小山秀綱(小山高朝の子で新当主)と共に7千の軍勢で結城城を攻撃した。結城氏の有力家臣・多賀谷政経が離反するなど結城晴朝は孤立、結城城は実城(本丸)を残すのみとなって降伏した[18]。 永禄4年(1561年)、越後の上杉謙信が北条氏康を討伐するため関東諸将を率いて小田原城を攻撃した。氏治も小田原城攻撃に参陣したが、小田原城陥落には至らず謙信は越後へ帰国した。同年、氏治は海老ヶ島城奪回のため宍戸入道
勢力拡大
上杉謙信との戦い