1927年に合計30両の旅客車両で、新宿から小田原まで一挙に開業した小田原急行鉄道は、当初は旅客数は少なく、経営的には厳しい状態が続いていた。戦時体制になってからは旅客数も上向きとなり、終戦後に小田急電鉄として新発足してからは、新宿から小田原までの速達化を目指してさまざまな新技術を試みた。これらの成果は、新宿から箱根に向かう特急ロマンスカーの車両に反映された。その一方で、通勤輸送においては経済性を重視する傾向が顕著になった。こうした小田急電鉄の鉄道車両(おだきゅうでんてつのてつどうしゃりょう)の歴史および特徴について記述する。
本項では便宜上、以下のような表記を使用する。
「小田急」と表記した場合、小田原急行鉄道および小田急電鉄。
「地下鉄」と表記した場合、帝都高速度交通営団および東京地下鉄。
「国鉄」と表記した場合、鉄道省・運輸通信省・運輸省および日本国有鉄道が運営していた国有鉄道事業。
「JR東日本」と表記した場合、国鉄分割民営化後の東日本旅客鉄道
「特急車両」と表記した場合、特別料金を徴収する列車に運用される車両全般。
「通勤車両」と表記した場合、特別料金を徴収しない列車に運用される車両全般。
「湯本急行」と表記した場合、箱根湯本へ直通する急行列車。
車両史
創業期.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}}開業当時に用意された長距離列車用の101形電車小田急史上唯一の木造電車51形601形制御車
1927年4月1日に小田原線が開業した当時に用意された車両は、「甲号車」と呼ばれる長距離列車用の101形が12両[1]、「乙号車」と呼ばれる短距離列車用の1形が18両[2]という内容で、いずれも当時としては近代的な車両であった。同年10月の全線複線化開業時には、甲号車として121形・131形が各3両ずつ[1]と151形が5両[3]増備され、手荷物輸送用に荷物電車が4両導入された[4]ほか、このときに開始された貨物輸送のために電気機関車が2両導入された[5]。しかし、旅客・貨物とも輸送実績は低調であった[6]。1929年4月1日に江ノ島線が開業した際には、201形・501形・551形が合計35両増備された[7]。この501形・551形は小田急では初の制御車であった[6]。しかし、夏季の海水浴客輸送の時こそ全車両をフル稼働させていた[8]ものの、平常時の輸送実績は低調なままであり、ほとんどの列車は1両か2両で足りている有様であった[6]。
過大な初期投資[9]に加えて昭和初期の不況[9]、さらに乱脈経営[10]が祟り、厳しい経営状態を余儀なくされた[11]小田急にとって、救いとなったのは1929年11月14日から開始された砂利輸送であった[11]。東京へ直結するという線形が注目され[12]、1930年には砂利輸送用の無蓋貨車の大量増備を迫られるほどになった[12]。1931年には砂利輸送専用の運行時刻が設定され[12]、1936年には小湊鉄道と鹿島参宮鉄道から余剰の無蓋貨車を購入して賄う[13]ほどの盛況となった。