小田急電鉄のダイヤ改正(おだきゅうでんてつのダイヤかいせい)では、小田急電鉄において実施のダイヤ改正と輸送体系の変遷について述べる。
本項では、系列会社である小田急箱根(旧:箱根登山鉄道)の鉄道線におけるダイヤ改正についても一部記述する。小田急ロマンスカーの運行の歴史についての詳細は当該項目を参照のこと。また、駅名が改称された駅については、基本的には当時の駅名で記述する。
ダイヤ改正の変遷
開業から終戦まで開業当時の車両(モハ1形復元車)
1927年4月1日、新宿駅と小田原駅の間が一部単線で小田原線として開業し、37駅が開設された。列車種別は各駅停車と直通の2種類が設定された[1]。各駅停車は近郊区間にあたる新宿駅から稲田登戸駅までの間のみの運行であったのに対し、直通は新宿駅と稲田登戸駅の間では経堂駅にのみ停車をし、稲田登戸駅以西は各駅に停車した[1]。開業当時は直通が45分間隔、各駅停車は経堂駅までが5分間隔で、稲田登戸駅までは10分間隔となっていた[1] が、実際にはそれだけの需要はなく[1]、同年6月には直通が60分間隔、稲田登戸駅までは8分から15分間隔に減便されている[1]。
同年10月15日、新宿駅と小田原駅の間の全線複線化が完成したことから、新たに急行が設定された[1]。当初は急行・直通とも60分間隔で、両者あわせて30分間隔であった[1] が、これもそこまでの需要がなく、翌年3月には急行は1日3往復に減便されている[1]。
1929年4月1日、大野信号所(現在の相模大野駅)と片瀬江ノ島駅の間に江ノ島線が開業した[2]。江ノ島線は直通が60分間隔での運行で[2]、このほかに不定期急行が1日3往復設定された[2]。
1935年6月1日、「週末温泉列車」と称する新宿駅と小田原駅を無停車で運行する列車の運行が開始され[2]、箱根方面への観光客輸送にも力を入れるようになるが、戦争の影響により1942年1月、運行を取りやめている[3]。
戦争の影響により、1944年11月の改正では急行も廃止され、各駅停車と直通のみの運行となり[3]、1945年6月には、直通も廃止され、全線各駅停車のみの運行となり、終戦を迎えた[3]。
なお、戦時中の1941年11月25日 - 1943年4月1日には神中鉄道(現在の相模鉄道)の海老名駅から本厚木駅までの直通運転が行われた[2]。 終戦後もしばらくは、全線各駅停車のみの運行だったが、1946年2月、1943年に中止された相模鉄道の海老名駅から本厚木駅までの直通運転が再開され[3]、1946年10月1日には新たに準急が設定された。運行開始当初の準急は、新宿駅、下北沢駅、経堂駅、成城学園前駅、稲田多摩川駅以西各駅に停車した[3]。また、1948年9月には準急のうち豪徳寺駅以西が各駅停車となる区間準急(通称「桜準急」)が運行される[4] など、優等列車が順次設定された[3]。 そして、1948年10月16日には、新宿駅と小田原駅の間を無停車の特急が土休日限定ながら運行開始となり[3]、1949年10月1日には、特急の毎日運行と急行が復活した[5]。御殿場線乗り入れのため1955年に登場したキハ5000形 1950年8月1日には、箱根登山鉄道小田原駅 - 箱根湯本駅間への小田急電車の乗り入れが開始された[5] ほか、1955年10月1日には新松田駅構内の連絡線を経由して日本国有鉄道御殿場線へ乗り入れる列車が設定され、小田急の車両は静岡県に新たに進出した[6]。この列車は、小田急線内では特急扱いであるが、国鉄線内では準急扱いとなったため、特別準急という種別となった[6]。 また、優等列車の停車駅にも変化が見られ、1949年10月の急行復活時、急行の停車駅は、新宿駅、下北沢駅、稲田登戸駅、新原町田駅、本厚木駅、伊勢原駅、鶴巻駅(現・鶴巻温泉駅)、秦野駅 - 新松田駅の各駅、小田原駅であった[5] が、1951年4月1日には急行の相模大野駅停車開始[6] と準急の成城学園前駅以西の各駅、1955年3月25日には通勤急行の運転も開始され[6]、小田原線内では急行通過の稲田多摩川駅への停車と急行の走らない江ノ島線でも運転が行われた[6]。
終戦から1960年まで