小田幸平
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小田 幸平中日ドラゴンズ 捕手コーチ #80
中日ドラゴンズ二軍バッテリーコーチ時代
(2022年11月6日、Agreスタジアム北谷にて)
基本情報
国籍 日本
出身地兵庫県高砂市
生年月日 (1977-03-15) 1977年3月15日(47歳)
身長
体重180 cm
88 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手
プロ入り1997年 ドラフト4位
初出場1998年10月1日
最終出場2014年9月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


市川高等学校

三菱重工神戸

読売ジャイアンツ (1998 - 2005)

中日ドラゴンズ (2006 - 2014)

監督・コーチ歴


愛媛マンダリンパイレーツ (2019 - 2020)

三菱重工West

中日ドラゴンズ (2022 - )

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

小田 幸平
YouTube
チャンネル

元巨人・中日小田幸平のはげch.

活動期間2019年11月25日 -
ジャンル野球
登録者数約5.07万人
総再生回数約706万回
チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002021-10-29-00002021年10月29日時点。
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小田 幸平(おだ こうへい、1977年3月15日 - )は、兵庫県高砂市出身の元プロ野球選手捕手)、コーチYouTuber
来歴
プロ入り前

兵庫・市川高校では甲子園に出場することはなく、卒業後は社会人野球三菱重工神戸へ進み、3年連続で都市対抗野球出場、3年目の秋には日本選手権で優勝に貢献して優秀選手を受賞[1]

1997年のドラフト会議読売ジャイアンツから4位指名を受けて、入団。
巨人時代

守備は即戦力級であり[2]、ルーキーイヤーの1998年から毎年一軍での出場機会を得る。桑田真澄もルーキーの小田を『キャッチングがうまいね』と評価したという[3]。しかし打撃に難があり[2]、3番手以降の捕手という評価に止まり、一軍で定着出来ないシーズンがしばらく続く。

1999年は開幕一軍だったが、開幕直後の対横浜ベイスターズ戦で村田真一の負傷退場に伴い守備に就いたものの、先発バルビーノ・ガルベスが最大9点あった点差をひっくり返されて逆転負けした責任を取らされ即二軍落ちとなり、10月まで昇格できなかった。

2004年は、プロ7年目で初本塁打を放った。課題であった打撃に成長が見られたこの年以降、出場機会が増えていく。

2005年には、正捕手の阿部慎之助、2番手であった村田善則に次ぐ巨人の3番手捕手として出場することが多かった。結果、巨人在籍時で最多となる31試合に出場した。
中日時代

2005年12月13日、FAで巨人に移籍した野口茂樹の人的補償として、中日ドラゴンズに移籍する[4]

2006年は、移籍して間もなく正捕手である谷繁元信WBCへの出場で戦列を離れたため、オープン戦ではほぼスタメンで出場。シーズン開幕後も、主に移動後での1戦目や交流戦山本昌先発時などにスタメン起用される。11月、1300万円増の3600万円で契約更改する。

2007年は、背番号が40から26へと変更される[5]。山本昌の不調もあり出場機会が減り、オフに視力矯正のためにレーシック手術を受け、視力が回復したことにより以後は眼鏡なしでのプレーとなる。

2008年は、背番号26を大学・社会人ドラフト1巡目で名城大学から入団した山内壮馬が付けることになり、背番号が28に変更された。シーズン当初は控えで、5月に谷繁が故障離脱すると先発も増え、移籍後最多となる41試合に出場し、オフの契約更改では増額を得た。しかし、秋季キャンプでは両足痛で途中離脱。背番号28をドラフト5巡目で明治大学から入団した岩田慎司が付けることになり、52に変更され、中日に移籍してから4年連続で背番号を変更することとなった。


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